「浮気小説Ⅱ - 鴨下信一」忘れられた名文たち から

 

 

「浮気小説Ⅱ - 鴨下信一」忘れられた


名文たち から

戦後、昭和三十年代にかけて出現した「中間小説」のいちばん大きな意義はまさにこのことで、こののち日本人が初めて経験することになる大衆社会にふさわしい〈標準文体〉を完成したところにあるのだろう。
それは、誰にでも、同じように書くことができ、しかもどんなものでも書ける、という文体だった。民主主義的文体といってもいい。
この時代、作家も編集者もこの文体を確立しひろめることに熱心だったから、中間小説の雑誌では巻頭から末尾まで、どのページをくっても同じ文体だ出てくることになる。時代小説も現代小説も、ミステリィも風俗小説も同じ文体で書かれているのは、今日から見れば奇観だが、とても面白い現象だ。
しかし、やがて昭和四十年代になると、最初は標準文体でスタートした作家たちが、きそって個性的な文体で書き出す。水上勉の文体の変化など、そのもっとも顕著な例だ。
ところでこの〈浮気の小説〉はもちろん読者の性的興奮をうながす。昭和三十年代の中間小説のホット・パートは、今ではまことに可愛らしいようなものだが、十代二十代でこの種のものを夢中で読んだぼくのような人間の実感では、それでも相当興奮したものだ。
その中でも特にエロティックな印象を与えた作家といえば、記憶では北原武夫、榛葉[しんば]英治、小田仁二郎といった人々だった。読み返してみると、これらの作家の文体はある特色をもっている。特に北原武夫のものがそうだ。この人のベスト・セラー作家ぶりといったら、とても今は想像できないほどのものだった。といってもぜんぜん露骨なわけでもなんでもない。まずこんな具合である。

頭髪は、この頃流行の、男の子のやうな刈り方をしてゐるらしく、紅いベレエの下から、素直な柔かさを持った髪の毛が、ほんの少し額に垂れてゐるだけだつたが、少し円味を帯びたその広い額も、やや硬い、端正な線を持つたその頬も、冷たい陶器のやうに澄んでゐて、驚くほど白かつた。その頬と同様、何の化粧も施されてゐない小さな唇は、生まれたままの清潔な血色を湛へて、キユツと強く結ばれてゐるが、それがこんな時の癖らしく、心の稚[おさな]さをそのまま見せたやうな形で、可愛い色をした舌の先端を、その端つこから、ほんのちよつと覗[のぞ]かしている。
それだけで、そこまで見ただけで、実は修三は、その時、何かムツと胸が迫つたやうな思いになつたのだが、ぎこちなく、金縛りになつたやうなその姿勢のまま、薄い藤色のスエーターに包まれたその胸元に、ふと眼をやつてみて、痛いものが眼に入つたやうに更にドキンと、胸が鳴つた。修三は、さあらぬ方に、急いで視線を逸[そ]らすると、思はずぐつと息を呑んだが、何かの水沫[しぶき]を一気に全身に浴びたやうな、その瞬間の鮮烈な激動は、まだ暫く、彼の身内で脈打つてゐた。全体が、冷たいくらゐ端正に、きやしやに引き緊まつてゐるのに、その部分の隆起だけ、彼女自身にも制禦出来ぬ、極く自然な内部からの息吹きに充実して、何と悩ましく、ムチムチと噎[む]せるほどに、厚く固く盛り上てゐたことか……。(「虹子の天国」昭和三十一年)

本当にこんなもので刺激を受けたとは馬鹿な話だが、刺激を受けた大半の原因はこの文体にある。これはポルノグラフィ-の文体の周到な借用にほかならない。
修三という男が女の胸元を見るときの描写を見ていただきたい。ここでは、読者がこの文章を読むときに要する時間と、主人公の「見るという行為[アクト]」の時間が、ほぼ等しくなるように、つまりリアル・タイムになるように、文章が引きのばされている。
文章というものは、まず大体が〈ことがらの要約〉で、実際の事実より文章に書かれたもののほうがコンパクトとなる。「コーヒーを飲む」という文章を読む時間は、実際にコーヒーを飲む時間より短い。当り前のことだが、文章はそうした時間縮小の機能を持っている。しかし、ポルノグラフィ-の中の性行為の描写が要約であれば、ずいぶんとそれはつまらないポルノである。リアル・タイム又はそれより拡大延長する方向でなければポルノにならない(要約せざろうえない社会的制約は別として)。心理や観念の描写は文章の上でしばしば拡大されるけれども、行動[アクション]を描いて時間を延長するのは、ほぼポルノの特権といっていい。戦後の日本が産んだ綺想の小説といえば沼正三の「家畜人ヤプー」と団鬼六の「花と蛇」だろうが、後者は文庫本で約十巻の内容がほぼ三日三晩の話のはずだ。SMを世にひろめたことより、この方が「花と蛇」の綺想たるゆえんだろう。 
北原武夫らの文章は、そうしたポルノの文体手法を巧妙に借用した特異な名文だといえないだろうか。