「立石寺の蝉 - 斎藤茂吉」斎藤茂吉全集第六巻から

 

立石寺の蝉 - 斎藤茂吉斎藤茂吉全集第六巻から


芭蕉の俳句に、『しづかさや岩にしみ入る蝉のこゑ』といふのがある。これは奥の細道にあるものだから、すでに人口に膾炙してゐると謂つていい。
私は大正十四年から大正十五年にかけて、雑種改造あたりに小さい文章を書いたとき、確か福本日南が南歐旅行中に咏んだ蝉の歌からの聯想でこの芭蕉の俳句を引合に出し、そして、この俳句の中の蝉のこゑといふのは油蝉の聲だといふやうに殆ど斷定的に書いたことがある。
すると、これももはや記憶が確かではないが、大體昭和二年の春ごろとおもへば大きい間違はない筈である。岩波書店主人から神田の末初で夕餐の馳走になつた。朝鮮の安倍能成さん、仙臺の小宮豊隆さんが東京に来られたのを機會に、中勘助さん、河野與一さん、茅野蕭々さん、野上豊一郎さんなどを加へてそれに私も参加したのであつた。
この小集は實に愉快な會合で、文藝論などもいろいろ出た。例へば正岡子規のものに關する安倍小宮の批評などが出て、私も應戦大に努めたほどである。
そのとき、どういふはずみであつたか、小宮さんから芭蕉の俳句の中にある蝉は、油蝉でなく、にいにい蝉に相違ないといふ話があつた。その證據として、第一、芭蕉の句の、『しづかさや』といふ初句が油蝉には適當してゐない。それから續く句の『岩にしみ入る』も亦さうである。これは威勢のよい油蝉のこゑよりもにいにい蝉のこゑに適當である。第二、芭蕉が出羽立石寺に行つたのは元禄二年の五月下旬である。何でも二十日前後と考へてよい。それを太陽暦に直すと七月のはじめになる。七月はじめには油蝉はいまだ鳴かないともおもふ。かういふ二つの證據を小宮さんは擧げた。
それに對して、私は第一の證據に向つては必ずしもその場で承服しなかつた。なぜかといふに、私は芭蕉の感覚を餘程近代的に受入れてゐたために、蝉時雨のやうな群蝉の鳴くなかの静寂を芭蕉が感じ得たと思つたからで、また、一つ二つぐらゐの細いにいにい蝉のこゑを以て、岩にしみ入ると吟ずるのは、餘り當然すぎておもしろくないとも思つたからであつた。併しこれは後で考へ直したことだが、私は少しく芭蕉をば近代人として買被つてゐただらう。それから小宮さんの第二の證據に就いては、私は大に有益を感じたのであつたから、よく調査しようと約した。實際私の結論には、元禄二年陰暦五月二十日前後といふ要約が入つてゐないといふ不備の點があつたのをその時すぐに氣づいたためであつた。

それから私は機を得て立石寺の蝉のことを調べてもらうやうに友人に依頼したのであるが、かういふ調査は依頼者と同じ立場にゐないものにはなかなかむづかしいものだといふことが分かる。私は少年のころ數囘立石寺をおとづれたけれども、蝉のこゑやその種類などに關する記憶はおぼろげなもので、先づ當になるものではない。それを當にした私の結論にもやはり落度はあつたと謂ふべきである。
私は昭和三年七月二十八日東京を立つて羽前三山に參拜し、その歸路八月三日に立石寺に立寄つて蝉を調べた。今度は芭蕉の句も知つて居り、奥の細道の、『山形領に立石寺と云山寺あり。慈覺大師の開基にて、殊に清閑の地なり。一見すべきよし人々のすすむるに依て、尾花澤より取てかへし、其間七里ばかりなり。日いまだ暮ず、麓の坊に宿かり置て山上の堂にのぼる。岩に巖をかさねて山とし、松栢年ふり土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音聞えず。崖をめぐり岩をはうて佛閣を拜し、佳景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ』といふ文章も大體知つてゐたので、夕がたまでゐて蟬を聽いたが、その日にはもう油蟬のこゑも交つて居り、決して一様ではなかつた。絲のやうに引くにいにい蟬の一つ二つの細いこゑではなくて、群蟬の鳴ごゑが一つになつてきこえる趣である。けれども、日は八月に入つてゐるので、その儘芭蕉の句に應用が出来ぬから、さういふ事實を見るにとどめて東京に歸つた。
それから、にいにい蟬、油蟬のことを注意してゐると、にいにい蟬も、それから油蟬も私の庭に幾つも鳴き、青山墓地を歩くともつとよく聽くことが出来るが、成程、油蟬は東京でもさうはやくは出ない。それから信濃に用事あつてそのころ旅したが、信濃でも大體さうであつた。ただ武蔵野の林に鳴いてゐるにいにい蟬などは群鳴で一つ二つ鳴く絲のやうな聲ではなかつた。これは私の感覚を支持するうへに大切な事實であつた。
昭和四年になつて山形高等學校の岡本信二郎さんから通信があつて、やはりそのころ立石寺には油蟬も鳴くことがあるといふことであつた。或はさうかも知れぬ、ひよつとせば時候によつて油蟬などの出現に遲速の差別もあり得るだらうといふやうな考もおこつた。
多分その年の夏ごろではなかつただらうか。小宮豊隆さんの「立石寺の蟬」といふ論文が載つた仙臺の河北新報を友人が送つて呉れた。小宮さんの論文は、嘗て末初の會合の時に私に話されたと同じ説がもつと精しく書いてあり、このたび辛うじてその新聞の切抜をさがし出して讀むと、新聞に載つた年月日を記入してゐなかつたから大體昭和四年と極めたのである。論文のなかには、『しかし齋藤君は私の説を頭から受けつけず、斷乎としてそのあぶら蟬説を主張して止まなかつたのである』と書いてゐるが、このところは小宮さんの記憶の錯誤らしい。私の小宮説に對する應酬は酒を飲んで幾らか威勢が好かつただらうが、つまる前言したごとくであつた。
昭和五年になつた。これより先き、元禄二年太陰暦五月二十日前後を太陽暦に換算した日を土屋文明さんに調べてもらつたのに據ると、七月七日前後だらうといふことである。文明さんは萬葉集年表の爲事をひそかに進めてゐるうちに、萬葉時代の月日を太陽暦に直す方の爲事をも進めてゐたのである。
そこで私は昭和五年七月四日夜東京を立ち、翌日の土曜と翌々日の日曜とを利用して立石寺の蟬を聽かうと思つたのであつたが、五日の朝羽前の國に入ると大雨が降つて、上山の山城屋といふ旅舎に晴を待つたけれども雨を運ぶ乳雲が目前を去来するのみで、蟬のこゑなどはただのひとつも聞こえない。一夜あけて次の日も大雨が降り晴れる見込が立たないから、私は立石寺行を斷念して空しく東京に歸つた。ただ上山にゐるうち、山形師範學校の博物専攻の橋本さんに蟬のことをいろいろ聽き、結城哀草果と山城屋のあるじに蟬の調査をたのんで歸つたことが私の爲めの収穫であつた。

その年八月はじめに十五歳になつた長男を連れて私はまた三山參拜に出かけた。そして參拜を遂げ上山に来て清澄な溫泉で汗を流し、一息ついた時には、私の眼前に、立石寺の山から捕へて来たといふにいにい蟬と油蟬の實物標本が幾つもならべられた。
あれから間もなく雨が晴れたので、哀草果等は小學校の兒童に手傳はせて立石寺の山の蟬を採集しに行つたさうである。にいにい蟬は大部分を占めて居り、奥の院の方へ行くに、蟬は一つ二つではなくなかなか多く鳴いてゐたといふ事であつた。大部分は油蟬だが兒童等は油蟬をも捕へてゐる。これは興味あるので冩眞にとつてもらふことを依賴して私は東京に歸つた。
九月二十日になると、岡本信二郎さんから蟬の冩眞がとどいた。その冩眞は山形高等學校の安齊さん、山形師範學校の橋本さん兩氏の盡力のたまものであつた。念のためその冩眞をこの文章に附けたが、上の段の二つはにいにい蟬の雄、第二段の二つは雌、第三段の一つは油蟬で、その大さと形態とを比較することが出来る。
そこで、結論を直ぐいふなら、芭蕉立石寺で吟じた俳句の中の蟬は小宮豊隆さんの結論の方が正しかつた。私の結論にはその道程に落度があつて駄目であつた。卽ち、『岩にしみ入る蟬のこゑ』の蟬は、にいにい蟬であつて油蟬ではなかつたと謂ふべきである。動物學的には油蟬を絶待に否定し得ざること標本の示す如くであるが、文學的には先ず油蟬をば否定していい。
それから、群蟬(この中には油蟬もにいにい蟬も混合してゐてかまはない)の鳴いてゐる音響中の閑寂境を芭蕉は感じ得ただらうといふ私の説も、やはり少し行き過ぎてゐたので、芭蕉の感覺は依然として元祿の俳人の感覺であつたのだらうから、此處は小宮さんのいはれる如く、『蟬の聲が、岩にしみ入と感じられるためには、その蟬の聲は、太くて濁つて直線的で然も息が續かないやうなあぶら蟬の聲ではまことに具合がわるい。それはどうしても、細くて比較的澄んでゐて絲筋のやうに續くかと思へば時々☆[しわ]りが見えるやうな、にいにい蟬の聲の方が、遥かに適切である様である』といふのが、芭蕉の句を解釋するのには正しい文章であり、芭蕉はやはり、『閑かさや』といつて一つか二つかのにいにい蟬を冩生してゐるらしい。これも小宮さんの解釋の方が好いやうである。
以上のやうなことを昭和五年九月に直ぐ書くつもりでゐて、それをせぬうちに私は滿州の旅に立つてしまつた。併し私は昭和六年の春に仙臺で小宮さんに會ふ機があつて私の今度の結論を話した。さうすれば更にそれを文章に書く必要がなくなつたやうなものであり、その氣乗も失せたまま今日に及んだのであるが、考へて見れば岡本さんから送つてもらつた蟬標本の冩眞もこれはなかなか珍重すべき性質のものだから、このたび更に思ひたつてこの文章を作つたのである。
(昭和七年六月二十七日夜)