「ネコ - 三木卓」猫のエッセイ珠玉の35選 から

 

「ネコ - 三木卓」猫のエッセイ珠玉の35選 から

芦名から左に相模湾を見ながら葉山の方へ北上していくとき、バスの窓から首をのばしてつい様子をうかがってしまうところがある。バスの停留所でいうと峰山というところがあるが、そこはすぐその前の道路沿いに二本の門柱の立っている廃物商の物置場である。廃物商の物置場だから、こわれた巨大な冷蔵庫とか、わけのわからない金属の破片とか、石油ストーブのへしゃげたやつとか、そういうものが山ほどつみあげてある。
おいてあるものもおもしろい。が、私が見るのは、ネコである。いつそこを通っても五、六匹のネコが、そのせまい空地やがらくたの上に乗っかっていて、東や西を向きながらシッポを立てたりしている。どうみても、血統のいいと思われない連中である。
はじめは、野良ネコ大集合の図かと思っていた。しかし、ここはだれがみてもさしたるごちそうがあるとも思われないところだ。首をかしげていると、わかった。或る日、感じのいい年輩の人が皿に餌を盛ったものを出してやっていたのを見たからである。ネコどもはうれしそうにむらがっていた。ああ、この人が、当店のあるじでネコを飼っているのだ、と思った。そしてほっと心のあたたまる思いがした。
それから通るたびにながめる。全員が遠出をしていて、一匹もいない、ということは、なぜか少ない。いつも幾匹かいて、ウロウロ歩きまわっている。当のあるじが、ぼんやりと海のかなたをながめていることもある。
この人も、いかにも人生など所詮仮りの姿にすぎない、という、いかにも達観したようすで、たんたんとネコとクズとともに生きているが、こうしてここにいるについてはそれまでにどういう経緯があったのか、と思わせるようなところもある。女性が沢山のネコやイヌを飼っているとき、それにひどく執着しているさまがにじみでているように思われて迫力を感じたりすることがあるが、この人が、来たければおいで、いやならどこへでもお行きというようにネコとつきあっているのは、男らしいと感じたりする。
かつて、四十九匹のネコが共同して一軒の家の家主になっている、という童話『おおやさんはねこ』を書いたことがあった。わたしとおぼしき人物が、安い家賃にひかれて仕事場としてその家を借りたらさあたいへん、大家さんは集団のネコでしたというものなのだが、そのものがたりはすったもんだのあげく、大家さんたちは、アメリカから帰ってきたもうひとつの飢餓集団のネコたちにその家の権利をゆずってしまう、というところで終っている。
権利をゆずってしまったものは、もうそこにいるわけにはいかない。かれらははてしなく続く屋根のいらかをどこまでもわたって、いずこともわからぬところへ去っていく。作者のわたしだって、かれらがどこへいったのか知るわけがない。
峰山のネコたちの前を通過するたびに、この作品のことを思い出すようになった。
もしかするとやつら、さんざん苦労したあげく、ここでいい人をみつけて住みついたのか。
もしかするとここの御主人はわたしなんぞよりずっといい人で、かれらは、やっぱり渡る世間に鬼はないなア、なんていいあっているかもしれない。みんな仲よくしあわせにやっている。いつ通っても、必ず幾匹かが姿をみせているのは、あるじが留守のときに悪者があらわれ、御主人さまの大切なガラクタを盗んでいったりしないように、交代でみはりをしているのかもしれない。

現実と虚構の世界がごちゃまぜになって、わたしの幻想はさまよい出す。これを考えていくと『おおやさんはねこ』の続編が成立してしまうかもしれない。
湘南地方にはネコは多いような気がするがどうだろう。
ネコの人口(ネコ口)調査なんてないだろうから、なんとも証明のしようがないが、この前のわたしの仕事場のアパートの周辺(鎌倉市岡本)はネコだらけだった。電柱なんか、ネコどもの爪とぎのせいで、二メートルぐらい上までササクれだっていた。それを見ればだれだってたちまちふるえあがり、ネコと人とは仲よくやっていくべきだと思ったはずである。わたしの童話も、そうしたおそるべき状況の産物であった。
芦名も相当なもので、バス停近くの魚屋のまわりで日なたぼっこなんかしているのも一匹や二匹ではない。
しかし、単独で行動しているネコがほとんどである。わたしもときどきすれちがったりする。ネコは人間とちがって土地の所有者のことを思ったりしないから、ふいに、とんでもないところ、たとえば、サクラだけがハラハラと散っている、留守の別荘の玄関などに堂々と姿をあらわして、「おぬし、なにか用かネ。無断で他人の屋敷をのぞくのはあまり礼にかなったこととはいえないね」という態度で、わたしをジロリと見たりしている。しかし、いうまでもないことだが、その家とそのネコには、まず何の関係もないのである。
かわいそうなのもいる。このあたりは交通量もさほど多くはないのだが、車にやられて冷たくなっているネコに、たてつづけて二度も出会った。ネコはイヌよりも車から身を守ることがはるかに下手であるという。あんなに警戒心が強くて、わたしなど、とてもだませそうもない動物なのに、どうしてなのか。やはり知恵が及ばないところがあるのだろう。かしこいはずのヒトだって思わぬところで変な運命に陥ったりする。生きもののそういうところはかなしい。
わたしのいるアパートの四階の窓から見下ろすと、前にひろがる枯草の原がある。原は丘につづいている。小高くてわずかばかり平坦にいるところがあるが、そこは、しばしば、ネコの日光浴の場である。枯草の黄色いしげみのなかに、横たわっているネコのおしりや頭が見えかくれしていてうごかない。二月のあかるい光がさんさんとネコのからだに降りそそいでいる。
枯草の原をゆっくり歩いているのもいる。双眼鏡でのぞくと枯草とネコしか視界に入らないから、何時の時代のどこのことかわからなくなる。ネコは人がいようといまいと、こうして孤独に野をさまよっていた、というふうに思われてくる。寂しい姿ともいえるが、近よりがたい存在感がある。まるでヒョウのような雰囲気だ。これが生きているということの、ありのままの姿なのだと思ったりする。