(巻三十五)雪の降る町といふ唄ありし忘れたり(安住敦)

(巻三十五)雪の降る町といふ唄ありし忘れたり(安住敦)

1月9日月曜日

穏やかな朝である。春の陽気になるらしい。

朝家事は特になし。毛布を干す。

生協に買い物に行き往路復路でトイちゃんにスナックをあげた。その復路でトイちゃんと遊んでいるところに猫おばさんが通りかかり、「この子達虐められているらしいのよ。虐めを見たら誰か教えてください。」と云われた。地域猫の難しいところだ。嫌な人には嫌なものだろう。好きなら室内で飼えと云うのも分かる。コソコソと可愛がっていこうか。

昼飯喰って、一息入れて、襟巻きを巻かず散歩に出かけた。先ずは生協に寄り猫のスナックと菓子パンを買う。都住訪問はサンちゃんの定位置から巡回を始めるとサンちゃんたちを引き連れてクロちゃんのところに行くことになるので今日はクロちゃんの定位置から始めた。定位置にいたクロちゃんに二袋。クロちゃんからサンちゃんへと移動したがサンちゃん不在。段ボールのシェルターが置かれているくらいだから都住の住人の間では虐めないという合意が出来ているのだろう。そこから稲荷のコンちゃんに回り一袋。コンちゃんはそれほど腹が空いていなかったようだ。クロちゃんもコンちゃんも日陰に寝そべっていた。猫の日向ぼこは日向ではないようだ。これ発見!

座布団を猫に取らるる日向哉(谷崎潤一郎)

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死。

起きてエアコンのある部屋へゆき、暖めてから血圧を計る。死にたいというほどではないが、生きていたくもないのに血圧を計り、医者にゆき、薬を飲む。

門松やこころもとなき逝く覚悟(拙句)

一昨日、昨日と、

「中くらいの妻 - 井口泰子」93年版ベスト・エッセイ集 から

を読んだ。

夫婦の話ではあるが、中流意識に対しての夫君の考察が挟まれていてこれが鋭い。

《“まあ、大勢が使っているものなら間違いなかろう”というのが夫の物差しである。それに「中くらい」のといったって、夫の説によれば、そもそもわれわれが足を運ぶ店というのが庶民のごくありふれた店で、きらびやかな高級品店ではないのであるから、「俺たちの“中”は、庶民の中の“中”なのだ」そうである。

最近では国民の大半が自分を中流だと思っているという意識調査の結果が報道されているが、夫はそれも「片腹痛い」という。そのこと自体は、「こりゃすごい、日本は平和だ」と高く評価しているのであるが、一方で「国民はみんなだまされているんだよ」と、なかなかニヒルである。

彼によれば、本当の上流、中流というのは国民の中のほんのひとにぎりの人間で、残りの99パーセントは全部下層である。国民の大半が中流と思っているのは下層の中の中流なのだ。上、中、下のうち上と中は目隠しされていて、庶民は、下のなかで「俺は上だ」「俺は中だ」と威張っているにすぎない。》

《それに彼の見るところ、「もともと人間は自分を“中”だと思いたがる要素をもっている」そうである。人間というものは、他人の不幸を見つけることで自分の幸福度を計るものらしい。自分より苦労している人、劣った人を見つけることによって慰められるものらしい。

「あいつは俺より金が無いらしい」

「あいつは体をこわしている」

「あいつは頭が悪い」

「あの人は私より器量が悪い」

自分より劣っていると思う人間を見つけられない人はまずいないから、人は自信をもって暮らしていられる。自分よりおとしめる対象のあるとき、人は決して自分は「下」だとは思わない。“俺は中だ”と思うものだ。自分より上と思う人間のない人もまずいまい。》

中流、庶民、大衆とたどり、

「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

を読み返した。

仮の世の真理に触れて卒業す(木田琢朗)

「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

選択に迷ふ大衆

いつか遠い未来の眼が振返ったとき、二十世紀の最後の二十年は、ひょっとすると、人類の精神史のなかでも特筆すべき時代として見えるかもしれない。それは、日本を含むいくつかの脱産業化社会において、無数の大衆が、ひとりひとり自分が自分自身を十分には知ってゐない、といふ事実に気づく可能性を持ち始めた時代だからである。

少なくとも今日の日本の社会ほど、ひとびとが、多様な商品をまへにして何を買ふかに思ひ悩み、どこへ遊びに出かけるかに心をくだき、自由な時間をいかに使ふかを決めかねてゐる社会は少ないだろう。町を歩いてきまって耳にするのは、「何か面白いことはないか」といふ青年の会話であり、書店や新聞売り場で目にするのは、服装、旅行、趣味、テレビ番組など、あらゆる楽しみにかかはるおびただしい案内書の山である。大型の工業製品だけについて考えても、現在、某企業が一社で生産するモーター・サイクルの種類はデザインや色彩の違ひを勘定に入れれば、つねに数百に達してゐるといはれる。まして、食品や衣料の品種と商標は数へきれず、行楽地や文化施設の種類も限りなくあるから、何を着て、何を持って、どこへ行くかといふ選択肢の組み合せは、ほとんど天文学的な数字にのぼるであらう。しかも、現代社会では、さうした選択を助けるはずの情報そのものの数が多く、消費者は案内書やカタログの山に埋もれて、まづその情報の選択に苦しまねばならない。

一方で、選択すべき対象の数が増えるとともに、他方では、選択しながら生きるべき自由な時間が延びて、現代人の人生はまさに迷ひの機会の連続になったといへる。青春の猶予期と老後の余生がともに長くなって、労働による拘束時間が減ったばかりでなく、労働の時間そのもののなかにすら、自由な選択の余地がしのびこみ始めてゐる。商品の企画開発や、デザイン、宣伝、セールスといった非工場的な労働の場合、真に大きな成果をめざさうとすれば、決められた手続きをただ反復することは有効ではない。さういふ職場に生きるひとりの勤労者にとって、ある一日の午後、つぎの数時間をいかに過すかについて規則による拘束がなく、完全に彼の創意にゆだねられる機会は確実に増えつつある、といへよう。けだし当然のことだが、消費者が何を買ふかについて迷ひの機会を増やせば、その分だけ生産者もまた、何をどのやうに作るかについて真剣に迷はねばならないのである。

興味深いことに現代の日本人は早くもこの急増する選択の機会に疲れを覚え、一面においては、無意識のうちに一種の「自由からの逃走」を試みてゐる、とさへ見ることもできる。

ひとつには、昨今、家庭における伝統的な年中行事の復活が盛んになり、冠婚葬祭の儀式がしだいに形式的な煩雑さを増してゐるといふのも、そのことの徴候であるかもしれない。ひとびとは、自由すぎる自分の行動にたいして外的な拘束を求め、あり余る時間のなかで、いつ、何を、いかにするかについての決断の労を省かうとしてゐるかのやうに見える。さらに示唆深いのは、最近の購買活動のかたちにいはば二極分解の傾向が見られ、一方でゆとりある買ひものが好まれるとともに、他方では極端に安易簡便なサーヴィスが求められてゐる、といふ現象であろう。小売店の店頭に自動販売機が置かれ、それが開店時間中にも大いに稼働してゐるといふ話を聞くし、あへて商品の種類を限定した、いはゆるコンヴィニエンス・ストアが成功ををさめてゐる、といふ事実も報告されている。いまや消費者たちは、日常品の購入についてはできるだけ選択の煩を避け、そのかたはら、節約された時間と精力を特定の趣味的な買ひものに注いでゐる、と見るべきなのかもしれない。

いふまでもなく、近代の歴史を振返れば、人間は一貫して、行動の多くの分野にわたって自由意志の支配を強め、あらゆる問題について意識的な選択の機会を増やしてきた。職業や配偶者の決定はもちろん、家族の構成や子供の出産にいたるまで、かつては伝統的な習俗に支配されてゐたことが、近代では、すべて個人の自由な選択にゆだねられることになった。しかし、その場合、前提とされてゐたのは、個人の欲望が明快に存在するといふ事実であって、自由な選択とは、その欲望が意志となって働くのに何の妨げもない、いふことを意味してゐた。いひかへれば、近代の自由の前提は、人間が自分自身を十分にしってゐるといふことであり、より具体的にいへば、自分が何を欲してゐるかを完全に知ってゐる、といふことであった。

これにたいして、現代の消費者は、おびただしい商品の山をまへにして、たえず自分の欲望そのものの内容を問ひただされ、しばしば、じつは自分がその答へを十分には知らない、といふ事実を自覚させられてゐる。「何か面白いことはないか」と自問する人間は、すでに半ばは、自分がその「何か」を知らないことを告白してゐるのであり、自分が自分にとって不可解な存在であることに気づきはじめてゐる、と見ることができるだろう。

孤立するエリートの終り

この自覚が、たとひ漠然とではあれ社会全体に浸透し、多数の大衆がいまや自分の行動について迷ひ始めたとすれば、これは近代の大衆化の歴史にとって重大な変化だ、といはなければならない。

なぜなら、ほぼ半世紀まへ、『大衆の反逆』を痛烈に非難したオルテガ・イ・ガセットによれば、大衆とは共通の欲望にもとづく「標準的な生活」を求めるもであり、「すでにある自己」に安んじて、その保持にのみ腐心するものにほかならなかったからである。すなはち、彼の見た大衆とは、第一に、多数の他人と同一の欲望を共有する人間であり、第二には、多数者と一致してゐるがゆゑに、さういふ自己の欲望に傲慢な確信を持ちうる人間であった。いひかへれば、彼らは、自分の欲望が普遍的で正当な要求であることを確信してをり、だからこそ、「すでにある自己」に安住して、それに「より高い課題」を課す必要を感じない人間であった。しかし、現代の大衆は、すでにその「標準的な生活」への欲望をほぼ満たされてをり、満たされた分だけ、他人と共通の欲望を強く感じる機会を失ってゐる。それどころか、彼らはその消費生活を通じて、日々に他人のまへで個性的であることを要求され、刻々に「すでにある自己」とは違ふものになることを要求されているのである。

一方、この現代の大衆は、オルテガのいふ「選ばれた少数者」とも違って、けっして自分の欲望を自分から否定し、より高い理想をめざして生きる克己的な人間でもない。彼らは、その点でもいはば謙虚な人間だともいへるのであって、何が高い課題であり、何が普遍的な理想であるかについても、自分がたしかに知ってゐるとは感じてゐない。

じつをいへば、オルテガの「選ばれた少数者」は、彼の時代の大衆を裏返した存在にすぎないのであり、大衆が自己の不変の欲望を信じてゐたのにたいして、彼らはそれを否定する点で変ることなき自己を信じたのであった。だが、今日の新しい大衆は、自分の欲望が日々に変化するものであることを学んでをり、あへて否定するまでもなく、たえず思ひがけなく、「すでにある自己」を裏切るものであることを感じてゐる。彼らにとって、自己とは、ただ頑迷に保持するべき存在でもなく、克己的に否定するべき存在でもなく、むしろ、みづからが日々に発見して行くべき柔軟な存在になった、といへるだらう。もちろん、彼らもときには克己的に行動することもあらうが、それは、彼らが傲慢に自己の理念を確信してゐるからではなく、反対に、主張すべき自己の欲望に確信が持てないからにちがひないのである。

このやうな変化は、おそらくはまず、これまでの大衆とエリートの対立の構図を変へ、ひいては、伝統的な個人主義の思想にも根本的な変更をせまることになるのは、明らかであらう。なぜなら、従来、大衆とは本質的に均質的な存在であり、また、自己保存の本能に生きる存在であるのにたいして、エリートとは本質的に個別的であり、また、自己変格の意志と不安に生きるものだ、といふのがわれわれの常識であった。そして、かつての個人主義はかうしたエリートの生活原理にほかならず、その中心的な意味は、あくまでも均質性への反抗と生成発展の変化にある、といふのが伝統的な解釈だったからである。

だが、いまや、大衆そのものが均質性を失ひ、日々に変化する自己に不安を感じ始めてゐる以上、大衆性に反抗する個人主義も、古いエリートの孤立の精神に求めることはできない。いひかへれば、いはゆる大衆性の「危険」が、かつては盆俗と退嬰にあったのにたいして、いまではより多く、珍奇と非常識と自己分裂にうつりりつつあるのであるから、それにたいする救済のかたちもまた変らざるをえないのは、自明であらう。

現代の個人主義は、むしろ、個人を際限ない自己分裂から救ひ、変化のなかに一定の同一性を回復し、安定した生活の常識と、行動の落着いたスタイルを作る努力のなかになりたつことになろう。また、それは、さうした常識やスタイルのかたちで、個人相互のあひだに共通の生活の地平を作りだし、個性をそのうへに位置づけることによって明確化する、といふ新しい方向をめざすことであろう。考えてみれば、もともと、個人とは変化のなかの自己同一性のことであり、個性とは他人との共通性のなかの特異性のことであるが、この微妙な両義性の均衡を守るために、われわれは時代によって、とくにその一方の極を擁護しなければならないのである。