「誕生の不思議 - 佐藤三千雄」生老病死の哲学 から

 

「誕生の不思議 - 佐藤三千雄生老病死の哲学 から

「生は苦なり」と申します。そして生苦とは「受胎から出生までの苦しみ」と説明されています。しかし、おかしいとは思いませんか?受胎から出生までのことを、私は何も知らないのです。いや、知ることができないのです。産む人は自己経験をもっています。しかし生まれるものには、その自己経験が欠けています。誕生は、いわば私の経験の外で行われているのです。私のかけがえのない誕生は、まぎれもない事実でありながら、私にとっては後から人を介して知らされるだけのものなのです。何と不思議なことでしょう。
誕生は私がそれについて知っていることより以上のものなのです。そこに誕生の不思議があります。われわれは死を経験することができないのと同じように、誕生を経験することができません。われわれは生の前を知らず、死の後を知りません。人生はその二つの間の束の間の人生であります。
さらに「生まれる」という語法を考えてみましょう。英語などでは、生まれるということは受動態で表現されます。生むという他動詞の受動態が「生まれる」です。しかし、日本語の「生まれる」は、ぶんぽうてきには下一段活用の自動詞であります。どうしてでしょうか?辞書によりますと、「生まれ」は「ウミ(産)アレ(生)」がもとの意味ではないかと書いてあります。アレは「現れ」と同根で、神々や人がほっかりと出現して、そこに存在するという意味らしいのです。これは興味深いことであります。私という存在は、因果の必然によって出てくるものではなくて、いわば因果の連鎖から外れたところで「ぽっかり」と生まれるのだと解釈することもできます。
生む人も、思い通りに思い通りの子を生むことはできません。生まれる人に至っては、自分の才能や容貌を選んで生まれてくるわけではありません。親を選ぶこともできず、また誕生の時を選ぶこともできません。それらはすべて、私の意志に関わりなく与えられるのです。人は自分で自分を生んだわけでも、作ったわけでもありません。それこそ、こういう人間に生まれたくて生まれてきたわけではないのです。それは全く「思い通りにならないこと」、つまり苦なのです。人間として生まれるということには、このような全き受動性がつきまとっています。生苦といわれる所以であります。
さきほどの言葉の詮索を続けますと、「私は生まれた」とは言えても「私は生まれる」とか「私は生まれるだろう」とは言えないのです。というのは、「私は生まれるだろう」と言う時には、私はまだ存在していないはずですから、存在しないものが物を言うことはありえないからです。すなわち、誕生は思い出すこともできない絶対の過去なのです。誕生はそのような過去、つまり宿業を背負うことなのです。
赤ん坊が呱々[ここ]の声をあげるのは、喜びの声というより、むしろ悲しみの叫びであるという人があります。しかじかの条件を与えられて、さあこれで生死の限りない苦海を渡りなさいと投げ出されたら、泣き叫ぶよりほかに手はないという解釈です。
それより何よりも、人間が生まれるということは、「死すべき者」として生まれるということです。六道を輪廻するものとして生まれるということです。だから生とは苦海に生まれることだとなります。輪廻を信じなくても、死すべきものとして生まれることは否定できません。「人はうまれるやいなや死すべく十分に老いている」という西洋の諺もあります。死すべきものとして生まれるとは、何たる矛盾でしょうか。誕生はまた、死の始まりでもあります。ここにも誕生の不思議があります。