「生命の質を尊ぶ - 柏木哲夫」日本の名随筆別巻89生命 から

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「生命の質を尊ぶ - 柏木哲夫」日本の名随筆別巻89生命 から

淀川キリスト教病院ホスピスが設立されたのは一九八四年四月であった。それからもうすぐ二年になろうとしているが、その間に二〇〇名を越える方々を看取った。ホスピスの働きを短くまとめることはとてもむずかしいが、末期癌など治癒が不可能な病気を持った患者とその家族を医学と看護の力を結集して支えるプログラムである。ホスピスでは苦痛の緩和がまず第一と考えられる。末期の癌による痛みをコントロールするために、ホスピスではあらゆる近代医学の技術と知識が投入される。
多くの患者さんの人生の総決算に参加させていただいてつくづくと感じるのは、人は生きてきたように死んでいくということである。言い換えれば、人は生きてきたようにしか死ねないということである。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいくし、人に依存して生きてきた人は医者や看護婦に依存して死んでいく。その人の生きざまがみごとに死にざまに反映する。良き死を死すためには良き生を生きねばならないと感じる。
最近医療の世界で生命の質(Quality of Life) を高めることの重要性が叫ばれている。生命の質という言葉は、すこしわかりにくく、説明が必要であろう。一言でいえば、人間らしさということである。生命の長さだけではなく、その生命の中味を問題にしなければならないという考え方である。末期の患者さんに多くのチューブをつけ、ベッドにしばりつけたような状態で、ただ単に時間的に延命することだけを考えるのが本当に患者さんやその家族のためになっているのであろうかとの疑問が投げかけられているのである。
ホスピスでは限られた生命[いのち]を生きている患者さんのその生命の質を高めることを重要視する。生命の質が高まるためにはまず患者さんが苦痛から解放されることが大切である。例えば、痛みのコントロールが適切になされていないため、患者さんが一日中痛みと闘わなければならないとすれば、その人の生命の質は高いとはいえない。それ故にホスピスでは痛みのコントロールを最優先する。
ホスピスの目標は、その人がその人らしい生を全うするのを支えるということである。AさんにはAさんらしい生の全うのしかたがあり、BさんにはBさんらしい生の全うのしかたがある。ホスピスのケアは個々性を重んじたケアである。ホスピスの働きは死に焦点をあわせたケアではない。ホスピスは生きている、また、生きようとしている人々のその生を支える。人々が最後までその人らしく生ききるのを援助するのがホスピスの働きなのである。

癌末期にみられる不快な症状のうちで最も多く、また、耐えがたいのは痛みである。その他、はき気、嘔吐、便秘、呼吸困難、全身倦怠感、不眠などがおこる。これらの症状をうまくコントロールすることはホスピスの中でとても大切なことである。ホスピスのケアは身体的な症状のコントロールだけではない。患者さんは不安、恐れ、孤独感などに悩む。従って患者さんを精神的に支えることもホスピスケアの中で重要な位置を占める。精神的ケアの中で最も重要なことは、患者さんの訴えに十分な時間をかけて耳を傾けることである。安易に励ますのではなく、苦しみや悩みに理解を示しつつ、傾聴することである。「つらいですね」「苦しいですね」という言葉が、「がんばって下さい」という励ましの言葉よりもずっと患者さんの心に添うものであることを私は日常の臨床の場で患者さんから学んだ。
毎日、ホスピスで働いていて願うのは、患者さんが身体的にも、精神的にも平安であってほしいということである。患者さんの身体的、精神的状態は顔の表情に正直に現われる。回診の時、患者さんの表情をみるだけで痛みがあるかないかはわかる。入院時、痛みのために顔をしかめていた患者さんが数日後、鎮痛剤がよく効いて痛みから解放され、笑顔をみせて下さる時、ああ本当によかったと思う。いろいろと鎮痛のための手段を講じても、なかなか痛みがとれないこともある。医者がけんめいに努力してくれていることがわかるので、患者さんは医者に対する思いやりから、「おかげさまで痛みが大分やわらぎました」と言って下さる時があるが、顔をみると眉間にしわが残っている。表情は正直である。
死顔は一様に安らかである。死そのものは苦痛を伴なわない。死が近づくにつれて意識はうすれ、苦しさを感じなくなる。もし苦痛があるとすれば、それは死へのプロセスにおいてである。
死はすべての人に間違いなく訪れる。作家のサマセット・モームは、「世の中には多くの統計があり、その中には数字のまやかしもある。しかし、絶対に間違いのない統計がある。それは人間の死亡率が百%であるということだ」と言っている。多くの人の死を看取ってきたが、その中で感じるのは、死はすべてのことをのみこんで人々を平等にするものだということである。貧乏な人にも金持ちにも、地位のある人にもない人にも、死は平等に訪れる。私にもいつか必ず訪れる死をしっかりとみつめて生きていきたいと願っている。良き死を死すためには良き生を生きる必要があることを多くの患者さんから学んだからである。