(巻三十五)バーを出て霧の底なるわが影よ(草間時彦)

(巻三十五)バーを出て霧の底なるわが影よ(草間時彦)

1月19日木曜日

昨日買った葉書に

受験子の力になれぬ父連れて

と書いて用意した。

細君は息子と共に戦った二十年前の思い出に浸っている。

朝家事は特になし。陽射しがなく、毛布も干せない。

昼時に細君が急須の蓋を落として割る。教訓に基づき、「怪我ない?」と声をかけて、破片を拾い、濡れテッシュで拭き取りをしておいた。

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけたが、今日は寒い。遠出はせずに図書館とクロちゃんと生協で切り上げた。

寒いと腹が減るのは猫たちも同じようで、せっついてくる。今日はトイちゃん、サンちゃん、フジちゃん、それにクロちゃんみんなに二袋ずつあげた。

図書館で4冊借りたが、うち2冊は外れた。貸出予約本の棚に『エピクテトス-人生談義(岩波文庫)』があった。帰宅して直ぐに予約を入れておいた。理解できるかどうか心許ないが、試し読みができるのか図書館のよいところだ。

そういえば、亀有駅北口にあるTSUTAYAが店を閉めるとの情報が顔本に出ていた。書籍、文具店の売場はとても貧弱になっていたし、CDやビデオのレンタルなんて今やもはやであろう。

願い事-涅槃寂滅です。酔生夢死です。

昨日は、

「誕生の不思議 - 佐藤三千雄生老病死の哲学 から

を読んだ。坊さんの説法だが、坊さんと云うと荷風のこの物語を思い出し、

「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

再読致した。こういう話を読むと運のいい奴はいい思いをするなあと改めて思う。

運命と片付けられてちやんちやんこ(杉山文子)

1/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺[まんぎようじ]という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅[じやくめつ]の際、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革[ひめじがわ]の篋[はこ]があった。

大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持[じゆうじ]は錠前を打破[うちこわ]して篋をあけて見た。すると中には何やら細字[さいじ]でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。

愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此[ここ]に認[したた]め置候もの也。

> 愚僧儀はもと西国丸円[まるまる]藩の御家臣深沢重右衛門と申[もうし]候者の次男にて有之[これあり]候。

不束[ふつつか]ながら行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌[みぎり]御供廻[おともまわり]仰付[おおせつ]けられそのまま御国詰[おくにづめ]になされ候に依り、愚僧は芝山内[しばさんない]青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは昵懇の間柄にて有之候まま、右の学寮に寄宿仕[つかまつ]り、従前通り江戸御屋敷御抱[おかかえ]の儒者松下先生につきて朱子学出精罷在[まかりあり]候間、月日たつにつれ自然出家の念願起り来り、十七歳の春剃髪致し、宗学修業専念に心懸[こころがけ]候間、寮主雲石殿も末頼母[たのも]しき者と思召[おぼしめ]され、殊の外深切[しんせつ]に御指南なし下され候処、やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同僚の学僧に誘はれ、品川宿の妓楼[ぎろう]に遊び仏戒[ぶつかい]を破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経文修業も追々おろそかに相なり、果は唯うかうかとのみ月日を送り申候。或夜いつもの如く品川宿よりの帰り途[みち]、連の者にもはぐれ、唯一人牛町の一筋道を大急ぎに歩み参候と思の外何処まで行き候ても同じやうなる街道にて海さへ見え申さず候故[ゆえ]、これはてつきり、狐のわるさなるべしと心付き足の向次第、唯[と]有る横道に曲り候処、いよいよ方角を失ひ、かつはまた夜も次第にふけ渡り、月も雲間に隠れ候故、聊[いささ]か途法に暮れ、路端[みちばた]の草の上に腰をおろし、一心に念仏致をり候処、突然彼方より女の泣声聞え来り候間弥ゝ[いよいよ]妖魔の仕業なるべしと、その場にうづくまり、歯の根も合はずふる[難漢字]へをり候に、やがて男の声も聞え、人の跫音[あしおと]次第に近づき来るにぞ、此方[こなた]は生きたる心地もなく繁りし草むらの間にもぐり込み、様子如何[いかに]と窺をり候処、一人の侍無理遣[や]りに年頃の娘を引連れ参り、隙を見て逃出さむとするを草の上に引据ゑ、最前よりいろいろ事の道理を分けて御意見申上候得[そうらえ]ども、御聞入れ無之候得者[これなくそうらえば]、是非なき次第に候間、このまま手足を縛りてなりとお屋敷へ連れ帰り、御不憫[ごふびん]ながら不義密通の訴[うつたえ]をなし申べしと、何やら申聞しをり候処へ、また一人の、侍息を切らして駈[かけ]来り、以前の侍に向ひ、今夜の事は貴殿より外には屋敷中誰一人知るものも無之[これなき]事に候なり。われら駈落者[かけおちもの]を捕へ候とて、さほど貴殿の御手柄になり候訳にてもあるまじく候間、何とぞ日頃の誼[よし]みにこのままお見逃し下されよと、袂[たもと]に縋[すが]り、地に額を擦り付けて頼み候様子なれど、以前の侍一向聞入れ申さず。貴殿に対しては恩も恨もなき身なれど、このお小夜殿[さよどの]は恩儀ある我が師の娘御[むすめご]なり。道ならぬ恋に迷ひ家中の者と手に手を取り駈落致したりとの噂、世に立ち候時は、師匠の御身分にもかかはり申べく候。今の中[うち]なれば拙者の外は誰一人知るものなきこそ幸[さいわい]なれ。このままそつと御帰宅なされ候はば、親御様も上部[うわべ]はとにかく、必[かならず]手ひどい折檻などはなされまじ。かくいふ中にも時刻移り候ては取返しの付かぬ一大事、疾[と]く疾く拙者と御一緒にお帰り遊ばされ候へと、泣沈む娘を引立て行かむとするにぞ、一人の侍今はこれまでなりと覚悟致し候様子にて、突[つ]と立上り、下手[したて]に出[い]でをれば空々[そらぞら]しきその意見、聞いてはをられぬ。ないない御嬢様に色文[いろぶみ]つけ、弾[はじ]かれたを無念に思ひ、よくも邪魔をしをつたな。かうなれば、刀にかけて娘御はやらぬ。覚悟しやれと、引抜く一刀。此方も心得たりと抜き放ち、二、三合切結[きりむす]ぶ中[うち]、以前の侍足を踏み滑べらせ路の片側なる崖の方[かた]へと落ち込む途端[とたん]裾[すそ]を払ひし早業に、一人は脚にても斬られ候や、しまつたと叫びてよろめきながら同じく後の崖に落ち、路傍[みちばた]に取残されしは、娘御ひとりとなり候処、この時手に手に、提灯持ちたる家中の侍とも覚しき数人駈け来り、娘御の姿を見候て、皆々驚く中[うち]にも安堵の体[てい]にて一人の男の背に娘御をかつぎ載せ、そのままもと来りし方へと立去り候一場の光景。愚僧は始より終まで、草むらの中にて見定め、夢に夢見る心持にて有之候。但し固[もと]より夢にては無之[これなき]事に候間、とかきする中、東の空白みかかり塒[ねぐら]を離るる鴉の声も聞え候ほどに、すこしは安心致し草むらの中より這出し、崖下へ落ち候二人の侍、生死のほども如何相なり候哉[や]と、恐る恐る覗き申候に、崖はなかなか険岨[けんそ]にて、大木横ざまに茂り立ち候間より広々としたる墓地見え候のみにて、一向に人影も無御座[ござなく]候。

2/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

その辺に血にても流れをり候哉と見廻し候へども、これまたそれらしき痕[あと]も相見え申さず候。さては両人共崖に墜ち候が勿怪[もつけ]の仕合にて、手疵も負はず立去り候もの歟[か]など思ひながら、ふと足元を見候に、草の上に平打の銀簪[かんざし]一本落ちをり候は、申すまでもなくかの娘御の物なるべくと、何心なく拾取[ひろいと]り、そのまま一歩二歩、歩み出し候処、またもや落ちたるもの有之候故、これも取上げ候に革の財布にて、大分目方も有之候故、中を改め候処、大枚の小判、数ふれば正しく百両ほども有之候。これ必定[ひつじよう]、駈落の侍が路用の金なるべしと心付き候へば、なほ更空恐しく相なり、後日の掛り合になり候ては一大事と、そのまま捨て置き立去らむと致せしが、ふとまた思直[おもいなお]せば、この大金このままここに捨て置き候へば、誰か通がかりの者に拾はるるは知れた事なり。かつはまた金の持主は駈落者にて、今は生死のほども知れずに相なり候者故、これぞ正しく天の与る所。これを受けずばかへつて禍をや蒙らむと、都合好き方へと理をつけ、右の金子財布のまま懐中に致し候ものの、俄に底知れず恐ろしき心地致し、夢が夢中にて走り出し候中[うち]、夜は全く明けはなれ、その辺の寺々より鉦や木魚の音頻[しきり]に聞え、街道筋とも覚しき処を、百姓供高声に話しながら、野菜を積み候荷車を曳き行くさま、これにて漸[ようや]く二本榎より伊皿子[いさらご]辺に来かかり候事と、方角も始て判明致候間、急ぎ芝山内へ立戻り候へども、実は今日まで、身は持崩し候てもさすがに外泊致候事は一度も無之、いつも夜の明けぬ中に立戻り、人知れず寝床にもぐりをり候事故、今はその時刻にも遅れ候て、わが学寮へは忍入る事も叶ひ申さず。かつはまた百両の金の隠し場所にも困候故、そのまま引返し、とぼとぼと大門のあたりまで参候処、突然後より、モシ良乗[りようじよう]殿、早朝より何処[いずこ]へお出[い]でかと、声掛けられ、びつくり致し振返れば、浄光寺と申す山内末院の所化にて、これも愚僧などと同様、折々悪所場へ出入致し候得念[とくねん]と申す坊主にて有之候。京橋まで用事有之候趣にで、同道致候道々、愚僧の様子何となくいつもとは変りをり候ものと見え、何か仔細のある事ならむと頻に問掛け、果は得念自身問はれもせぬに、その身の事供[ども]打明け話し候を聞くに、得念は木挽町に住居致候商家の後家と、年来道ならぬ契[ちぎり]を結び、人の噂にも上り候ため度々[たびたび]師匠よりも意見を加へられ候由。しかる処後家の方にても不身持の事につき、親戚中にてもいろいろ悶着有之候が、万一間違など有之候ては、かへつて外聞にもかかはり候事とて、結局得念に還俗致させ候上、入夫[にゆうふ]致させ申すべき趣。内談も既にきまり候に付、浄光寺の住職方[がた]へは改めて挨拶致し、両三日中[さんにちちゆう]には抹香臭き法衣[ころも]はサラリとぬぎ捨て申すべき由。人間若い時は一度より外無之[ほかこれなき]もの故、愚僧にも今の中とくと思案致すが好いなど申し続け候。その日は得念に誘はれそのまま後家方へ立寄り候処、いろいろ馳走に預り候上、風呂に入候処、昨夜よりの疲労一時に発し、覚えずうとうとと眠り催し驚きと目を覚し候へば、日も早や晩景に相なり候故、なほなほ驚き、後家始め得念にはいずれ両三日中重て御礼に参上致すべき旨申し、熱く礼を陳[の]べ候て立出[たちい]で候ものの、山内の学寮へは弥々[いよいよ]時刻おくれて帰りにくく、さりとて差当り行くべき当[あて]も無之候の上、足の向くがまま芝口[しばぐち]へ出[いで]候に付き、堀端[ほりばた]づたいひに虎の門より溜池へさし掛り候時は、秋の日もたつぷりと暮れ果て、唯さへ寂しき片側道、人通も早や杜断[とだ]え池一面の枯蓮に夕風のそよぎ候響[ひびき]、阪上[さかうえ]なる葵の滝の水音に打まじりいよいよ物寂しく耳立ち候ほどに、わが身の行末俄[にわか]に心細く相なり土手際の石に腰をかけ、ただ惘然[ぼうぜん]として水の面を眺めをり候処、突然後より愚僧の肩を叩きコレサ良乗殿。大方こんな事と思ひし故、心配して後をつけて参ったのだ。と申し候は今方木挽町なる後家の許[もと]にて別れ候得念なり。得念は愚僧をは身投げにても致す心に相違なしといろいろに申候末、あたりを見廻し急に言葉を改め、愚僧が懐中に大金を所持致すは、大方山内の宝蔵より盗みし金なるべし。友達の誼[よし]みに他言は致さぬ故、半分山分けに致せと申出で候。さては最前風呂より上り、居眠り致候節見抜かれしと思ひ、昨夜の顛末委[くわ]しく語りきかせ、実はこれよりその屋敷を尋ね、金子[きんす]を返却致したき趣[おもむき]申聞かせ候へども、得念一向承知せず。果は押問答の末無法にも力づくにて金子を奪[うばい]取らむと致候間、掴[つか]み合の喧嘩に相なり候処、愚僧はとにかく十五歳までは武術の稽古も一通は致候者なれば、遂に得念を下に引据ゑ申候。得念最早や敵[かな]はずと思ひ候にや、忽[たちまち]大声にて人殺しだ。泥棒だと呼続[よびつづ]け候故、愚僧も狼狽の余り、力一杯得念が咽喉[のど]を締め候に、そのままぐたりと相なり、如何ほど介抱致候ても息を吹返す様子も相見え申さず候故、今は如何とも致しがたく、幸闇夜にて人通なきこそ天の佑[たすけ]と得念の死骸を池の中へ蹴落し、そつと同所を立去り戸田様御屋敷前を通り過ぎ、麻布今井谷湖雲寺門前に出で申候処、当時はまだ御改革以前の事とて長垂阪[ながたれ]上の女郎屋いたって繁昌の折から、木戸前を通りかかり呼び込まれ候まま、ここに一夜を明し申候。誠に人間一生の浮沈は測りがたきものなり。偶然大金を拾ひ候ばかりに人殺の大罪を犯す身となり果[はて]候上は、最早や如何ほど後悔致候ても及びもつかつかぬ仕儀[しぎ]にて、今は自首致して御仕置を受け申すべきか。さらずば、運を天に任せて逃げられ候処まで逃げ申すかの二ツより外に道は無之候。今更懐中の金子を道に棄て行き候とも、人殺の罪は免れぬ処と、夜中まんじりとも致さず案じ累[わすら]ひ候末、とにかく一先[ひとまず]何地[いずち]へなり身を隠し、様子を窺ひ候上、覚悟相定め申べしと存じ、翌朝麻布の娼家を立出で、渋谷村羽根沢の在所に、以前愚僧が乳母にて有之候お蔦と申す老婆。いたって実直なる農婦にて、二度目の婿を取り候後も、年々寒暑の折には欠かさず屋敷へ見舞に参候ほどにて、愚僧山内の学寮へ寄宿の後も、有馬様御長屋外の往来にて、図らず行逢ひ候事など思い浮べ、その日の昼下り、同処へ尋[たずね]行き申候。思[おもい]の外[ほか]手びろく生計[くらし]も豊かに相見え候のみならず、掛離[かけはな]れたる一軒家にて世を忍ぶには屈竟[くつきよう]の処と存ぜられ候間、お蔦夫婦の者には、愚僧同僚の学僧と酒の上口論に及び、師の坊にも御迷惑相掛け、追放同様の身と相なり候にて依り、一先[ひとまず]国許へ立退きたき考えなれば、四、五日厄介になりたき趣を頼み候処、心好く承知しくれ候故、ゆつくり疲労を休め、縞の衣服、合羽など買求め候得[そうらえ]ども、円き頭ばかりは何とも致方無御座[いたしかたごさなく]候間、俳諧師かまたは医者の体[てい]に粧[よそお]ひ、旅の仕度万端ととのひ候に付き、お蔦夫婦の者に別れを告げ、教へられ候道を辿[たど]りて、その夜は川崎宿に泊り申候。

3/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

しかしながら始めより国許へ立帰り候所存とては無之事[これなきこと]に候間、東海道を小田原まで参り、そのまま御城下に数日滞在の上、豆州[ずしゆう]の湯治場を遊び廻り、大山へ参詣いたし、それより甲州路へ出て、江戸へ立戻らむと志し候途中、図らず道づれに相なり候は、これ即ち当山満行寺[とうざんまんぎようじ]先代の住職了善上人殿[りようぜんじようにんどの]にて御座候。殊の外愚僧を愛せられ、是非とも満行寺に立寄れと御勧めなされ候により、そのまま御厄介に相なり候処、当山は申すまでもなく西本願寺派丸円寺の分れにて、肉食[にくじき]妻帯の宗門なり。了善上人には御連合[おつれあい]も先年寂滅[じやくめつ]なされ、娘御お一人御座候のみにて、法嗣[ほうし]に立つべく男子なく、遂に愚僧を婿養子になされたき由申出され候中[うち]、急病にて遷化[せんげ]遊ばされ候。尤[もつと]もこれは愚僧当山の厄介に相なり候てより三年の後にて、愚僧は御遺言に基き当山八代目の住職に相なり候次第にて有之候。これより先、愚僧はかの百両の大金、豆州[ずしゆう]の湯治場を遊び廻り候ても、僅[わずか]拾両とは使い申さず。殆[ほとんど]そのまま所持致をり候事故、当山の御厄介に相なり候に付いては、またもやその隠場所に困りをり候処、唯今にても当寺表惣門の旁[かたわら]に立ちをり候榎[えのき]の大木に目をつけ、夜中[やちゆう]ヨジ[難漢字]上[のぼ]り、幹の穴に隠し置き申候。さて先代御成仏の後は愚僧住職の身に御座候へば、他出他行[たしゆつたぎよう]も自由気儘に相なり候故、夜中再び人知れずかの大木にヨジ[難漢字]上り、九拾両の中四拾両ほど取出し、残り五拾両はそのまま旧[もと]の通り幹の穴に隠し、右の四拾両を以て、一時妾を囲ひ、淫楽に耽りをり候処、その妾も数年にして病死致し、続いて先代住職の形見なる梵妻[ぼんさい]もとかく病身の処これまた世を去り申候。その時は愚僧もいつか年四十を越し、檀家中の評判も至極宜しく、近郷の百姓供[ども]一同愚僧が事を名僧知識のやうに敬ひ尊び候やうに相なりをり候。何事も知らぬが仏とは誠にこの事なるべく候。それにつけても月日経ち候につけ、先年溜池にて愚僧が手にかかり相果て候かの得念が事、また百両の財布取落し候侍の事も、その後は如何[いかが]相なり候哉[や]と、折々夢にも見申候間、所用にて江戸表へ参り候節はそれとなく心を付けをり候へども、一向にこれと申すほどの風聞も無之模様にて、更に様子相知れ申さず候故、次第に安心も致すやう相なり候事に御座候。なほまた愚僧が先年寄宿罷[まかり]あり候芝山内青樹院の様子につきては、その後聞き及び候処によれば、愚僧突然行衛[ゆくえ]不明に相なり候に付き、その節学寮にては、心あたり漏れなく問合せ候ても一向に相知れ申さず候につき、殺され候歟[か]、または神隠しにでも遇[あ]ひ候歟、いずれにも致せ、不憫の事なりとて、雲石師は愚僧が出奔[しゅっぽん]の日を命日と相定め、寮内に墓まで御建てなされ候趣に御座候。

さて、愚僧は右の如く僅一、二年の間に妻妾[さいしよう]両人共喪[うしな]ひ申候に付き、またもや妾を囲ひたきものと心には思ひをり候ものの、早や分別盛[ふんべつざかり]の年輩に相なり候ては、何となく檀家を始め人の噂も気にかかり候て、血気の時のやうに思切った事も出来兼ね、唯折もあらばと、時節をのみ待ち暮し申候。時々は遠からぬ新宿へなりと人知れず遊びに出掛けたき心持にも相なり候へども、これまた同様にて埒[らち]明き申さず。空しく門前の大木を打仰ぎ候て、幹の穴に五拾両有之候上は、時節到来の砌[みぎり]は、如何なる浮世の楽しみも思ひのままなる身の上。別に急ぎ候には及ばぬ事と我慢致し月日を送り申候。人間の慾は可笑[おか]しきものにて、いつにても思ひのままになると安心致をり候時は、案外我慢の出来るものにて有之候。唯心にかかり候事は、風雨雷鳴の時にて、門前の大木万一風にて打折らるるか、または落雷に砕かれ候て隠置候大金、木の葉の如く地上に墜ち来り候やうの事有之候ては一大事なりと、天気宜しからざる折には夜中にも時折起出で、書院の窓を明け、大木の梢を眺め候事も度々にて有之候。とかくする中、数れば今より十余年ほど前の事に相なり候。彼岸も過ぎて、野も山も花盛りに相なり候頃、白昼俄に風雨吹起り、近村へ落雷十余箇処にも及び候事有之。当山門内の大榎は、幸にも無事にて有之候ひしかど、その後両三日は引続き空曇りて晴れ申さず。またまた嵐来り申すべくなど人々申をり候を聞き、愚僧心痛一方ならず。深夜そつと起き出て、大金を取出し置かむものと、大木の幹に登りかけ候処、血気の頃には猿[ましら]の如くするするとヨジ[難漢字]昇り候その樹[き]の幹には変りはなけれども、既に初老を過ぎ候身は、いつか手足思ひのままならず、二、三間[げん]登り候処にて片足を滑らせ、そのまま瞠[どう]とばかり地上に堕ち申候。静なる夜にて有之候はば、この物音に人々起出で参り大騒ぎにも相なるべきの処、幸にも風大分烈[はげ]しく吹[ふき]いで候折とて、誰一人心付き候者も無之。愚僧は地上に落ち候まま、殆ど気絶も致さむばかりにて、漸[ようや]く起直[おきなお]り候ものの、烈しく腰を打ち、その上片足を挫[くじ]き、四ツ這になりて人知れず寝所へ戻り候仕末。その夜は医者を呼び迎へ候事も叶ひ申さず。翌朝に至るを待ち始[はじめ]て療治を受け申候。それより時候の変目[かわりめ]ごとに打身に相悩み候やうに相なり、最早や二度とはかの大木には登れさうにもなき身と相なり申候。左候得者[さそうらえば]、樹上の大金は再び手にすることも出来兼[かね]候訳なり。人に頼めばわが身のむかしを怪しまるる虞[おそれ]有之。かの五拾両は樹上に有之候とも、最早やわが身には生涯何のやくにも立たざる物になり候よと思へば、満身の気力一時に抜落ち候やうなる心地致され、唯惘然[ぼうぜん]として榎の梢を眺め暮すばかりにて有之候。今までは一向気にも留めざりし鴉の鳴声も、かの大木の梢に聞付け候時は、和尚奴[おしようめ]、ざま見ろ。いい気味だと嘲弄[ちようろう]致すもののやうに聞きなされ、秋蝉の鳴きしきる声は、惜しよ惜しよ。御愁傷[ごしゆうしよう]といふように聞え候て、物寂しき心地致され申候。雨あがりの三日月、夕焼雲の棚曳[たなび]くさまも彼の大木の梢に打眺め候へば誠に諸行無常の思ひに打たれ申候。

4/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

しかしながらいかほど歎[なげ]き候ても、もともとわが身の手にて隠し候金子[きんす]。わが身の手にて取出す力なくなり候事なれば、誰も怨むにも及ばざる事に候間、月日を経[ふ]るに従ひ、これぞ正しく因果応報の戒[いましめ]なるべくやと、自然に観念致すように相なり申候。とにかくに半金の五拾両は面白可笑しく遣い棄て候事なれば、唯今の中[うち]諦めを付け申さず候ては、思ひもかけね禍[わざわい]を招ぐも知れずと、樹上の金子の事はきつぱり思切るやうにと心掛け申候。然[しか]る処またまた別の考いつともなく胸中に浮び来り申候。それは彼の金子今も果して樹上の穴に有之候哉[や]否や。愚僧の心付かぬ中[うち]盗み去りし者は無之候哉と、この事ばかり気にかかり候て、一応金の有無だけはしかと見定め置きたき心地致し候。次にはまた、もし彼の金子今以て別条無之においては、天下の通宝[つうほう]を無用に致し置く訳なれば、誰なりと取出し、勝手に遣へばよきものをといふ心にも相なり申候。但し軽々しく口外致すべき事には無御座[ござなく]候間これまたそのままに致し、唯ただ時節の来るを待ちをり申候処、或日の事、当村の庄屋殿より即刻代官所へ同道致されたき趣、使を以て申越され候間、直様[すぐさま]参り申候処、御役人御出[おいで]有之其許方[そのもとかた]に慶造[けいぞう]と申候寺男召使ひ候事有之候哉との御尋なり。御仰[おおおせ]の通り昨年冬頃まで召使ひ候旨御答申上候処、御役人申され候には、かの慶造事新宿板橋辺[へん]の女郎屋にて昨年来身分不相応の遊興致し候のみならず、あまつさへ大金所持致しをり候故、不審の廉[かど]を以て吟味致し候処、右慶造申立て候処によれば、慶造事盗み候金子は満行寺境内に有之候子育地蔵尊の賽銭ばかりにて、所持の大金は以前より満行寺門内の大木の穴に有之候ものの由にて、当夜慶造事地蔵尊の賽銭を盗み取りこれを隠し置かむと存じ、門内の榎に登り候処、何時[いつ]頃何者の隠し置き候もの歟[か]、幹の穴には五拾両の大金差込み有之候を、慶造図らず見付出し、寺方へはそれとなく暇を取り候趣[おもむき]申立て候得[そうらえ]どもなほ不審の廉[かど]少なからざるにつき、一応住職に聞ただし候上、江戸表へ送り申すべき手筈[てはず]なりとの事に御座候。愚僧は大[おおい]に驚き慶造の申開きにはいささかの偽りも無之旨[これなきむね]申述べたくは存じ候ものの、然[しか]らば樹上の五拾両は誰が隠し置き候哉と御詮議に相なり候ては大変なりと何事も申上げずそのまま立帰り申候。当村はその時分小普請組御支配綱島右京様御領分にて有之候間、寺男慶造は伝馬町御牢屋へ送られ、北の御奉行所御掛りにて、厳しく御吟味に相なり候処、慶造事十余年前麹町辺通行の折拾ひ候処隠場所にこまり当山満行寺へ住込み候を幸[さいわい]、大木へ上り隠し置き候旨申立て候由。勿論この儀は拷問の苦痛に堪へかね偽りの申立を致候事なれど、いづれに致せ、賽銭を盗み候儀は明白に御座候間、そのまま入牢と相きまり候処、十日ばかりにて牢内において病死致候。右の次第につき、五拾両の金子は慶造の遣ひ残り弐拾両余り有之候処、右は愚僧御呼出しの上落し人明白に相なり候時まで当山において、しかと御預り致すべき趣にて、そのまま御下げ渡しに相なり候。これにて愚僧が犯せる罪科の跡は自然立消えになり候事とて、ほつと一息付き候ものの、実はまんまとわが身の悪事を他人に塗付け候次第に候間、日数[ひかず]経[たち]候につれていよいよ寝覚あしく、遂に夜な夜な恐しき夢に襲はれ候やうに相なり候間、せめて罪滅しにと、慶造の墓のみならず、往年溜池にて絞殺し候浄光寺の所化得念が墓をも、立派に建て、厚く供養は致し候へども、両人が怨念なかなか退散致さざるものと見え、先年大木より滑り落ち候時の打身その年の秋より俄に烈しく相なり候上、引続き余病もいろいろ差加[さしくわ]はり、一日起きては三日ほど寝ると申すやうなる身体[からだ]になり果て候。この分にては到底元の身体には本復致すまじくやと覚束[おぼつか]なく存ぜられ申候。増して年も追々六十に迫り候老体の事に御座候へば、いづれにも致せ、余命のほどは最早や幾くも無之事と観念致をり候間、せめて今の中懺悔のあらまし認[したた]め置きたく右の通り書き続け申候也。なほ以て当山満行寺住職後継ぎの件につきては別紙に委細落ちなきやう認め置き申候。なほなほ愚僧実家の儀に付きては、往年三縁山[さんえんざん]学寮出奔この方[かた]、何十年音信[いんしん]不通に相なり候間、これまた別簡一封認め置申候也。以上。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。慶応 年 月 日。武州荏原郡荏原村。円光山満行寺住職釈良[しやくりよう]乗書。