「生きる - 尾崎一雄」中公文庫 閑な老人 から

 

「生きる - 尾崎一雄」中公文庫 閑な老人 から

私という人間-つまり生きものが、永遠に死なないと仮想するほど恐ろしいことはない。いつまでも、どこまでも、どんな状況下に陥っても、決して死なない、いや、死ねない、と考えると背筋が寒くなる。だが私にはすべての生きものと同様、始めがあったのだから終りがある。安心である。私という者がこの世に生まれるについては、過去無数の条件が参与している。だからといって、この世の前に私の生があったとはいえなかろう。同様に私の死後、私を組成していた物質がどこかに散在していたとしても、私が残っているとはいえまい。私は、この世に生きている間だけが私であると信じている。
巨大な空間と時間の面に、一瞬浮かんだアワの一粒に過ぎない私だが、私にとってはこの世こそがかけ換えのない時空である。いつの世でも、いろんなさまたげがあってそうはいかないけれど、すべて生きものは、生まれたからには精いっぱい充実した時をかさね、やがて定命がきて自然と朽ちるようにこの世を去りたいものだ。私もまたそうでありたい。しかし、そんな願いは無理のようだ。
私の子供は、私に似たところがある。私の子供だから当り前に違いない。だが、子供は私ではない。別の人間だ。私の血が流れているといっても、私がそこに生きているのではない。同様に、すでに死んだ私の父は、永久に無い。私の中にある父の血、父に関する記憶は私のものであって父そのものではない。
有無を越えた絶対を説く人の目からは、私なぞは小我にがんじがらめにされた迷蒙の徒と見えるだろう。私はそれでいいと思っている。私は、この世がいっぺんこっきりで、あとも先も空無と思っているから、この世にある限り、その時間を重く、厚く、濃く受容したいと考えるだけだ。
そういう考えでいるせいか、私は退屈ということを知らない。何でも面白い。かつて(三十年くらい前)ある小説で「つまらぬこともなで廻していると面白い」と書いたら、ある批評家からしかられたが、その時分から私にはそんな傾向があったのだろう。その傾向は年と共にいよいよ募って、今では、何ごとも、鮮烈で珍妙ならぬはない。そこにそういうものが在るというだけで、私には興味満点だ。ただ、人間のさかしらだけには、なかなかなじめなかったが、今ではそれも面白いと思えてきた。
巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石-何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある。在ることを共にしたすべてのものと、できるだけ深く交わること、それがせめて私の生きることだと思っている。
本来私は、生まれて死ぬのではなく、生かされてそして死なされるのだと思っている。私自身の意志にかかわりなく、断固として私を生かし、そして死なす力のあることはわかっても、それが何なのかはわからない。わかりたいと思うが、わかりそうでない。恐らくそれは、小さな人間の頭の中にははいり切らぬものなのだろう。わかっているようにいう人たちがあるが、私はそれを素直に受け取ることができない。私が愚かな上に疑り深いせいなのかもしれないが。
知らぬ間に自分というものが在り、知らぬ間にそれが無くなってしまう。実に実に不思議なこともあればあるものだ。世の中には「それが何で不思議だ」という顔をした人も結構いるのに、私は年をとるにしたがって子供っぽくなるのか。
とにかく私は、この世に生きていることが楽しい。しかし、やがて時期が来るだろう。いよいよ来たなと自覚したとき、だれか側にいたら、何かいいたくなるかもしれない。どういうだろう。アーメンとはいうまい。ナムアミダともいわないだろう。「いやどうも……それじゃ」ぐらいのことでもいうか。それとも黙っているか。いや、そんなことはどうでもいい、今在るもののすべてと、できるだけ深く交わることだ。