「東京の下町、居酒屋はしご酒(抄) - 島田雅彦」ちょこつと、つまみ から

 

「東京の下町、居酒屋はしご酒(抄) - 島田雅彦」ちょこつと、つまみ から

知らない街でふらっと昼飲み
仕事が早めに終わってとりあえずその日はやることがない時、あえて逆方向の電車に乗ってみる。あるいは、用事があって出かけた帰り、その途中のまだ降りたことのない駅で降りてみる。
だいたい午後四時ぐらい、八百屋も魚屋も夕食の買い物客で賑わいがある時間帯。商店街をフラフラ歩いていると、すでに営業している居酒屋が何軒かある。初めて降りる駅では勝手もつかめませんが、流行ってそうな店に飛び込みで入る。常連が多いでしょうから、一瞬見慣れない客を振り返って見たりする。
多少、礼儀正しい素振りをして座る。これはどこでもそうだが、新参者が場に馴染むためには、それ相応の礼儀正しさが必要である。気取る必要はさらさらないが、謙虚であるべし。一生懸命やっている人間に対する敬意をもち、「こちとら客だ~」といった横柄な振る舞いさえ慎めば問題ない。
メニューはだいたい手書きで、マジックで紙に書いて壁に貼ってあったり、黒板に書いてあったりする。とりあえず勘でいくつか頼んでみて、飲み始める。
何を飲むかはそのときの気分と喉の渇き方次第。ビールから入る時もあるが、酎ハイから入る時もあるし、ホッピーの時もある。いきなり升酒ということもある。
料理が並んだ時に、好きな物からたべるのか、それとも好きな物を最後に取っておくのかは、それぞれの性格や流儀にもよるが、酒を飲む時は味覚が鋭敏な最初のうちに、繊細な味わいを堪能しておいた方が賢明だと思う。たとえば、そうそう市中に出回らない銘柄の日本酒があったら、まだ舌が鈍っていない間に味わっておきたい。
基本的に安い。つまみが一〇〇円のところも多い。相当飲んでも二〇〇〇円かからなかったりします。その店に来た人が必ず頼むメニューがあって、煮込みだったり、モツ焼きだったり、ハゼの天ぷらだったり。それを二、三品取って、酎ハイ三杯ぐらい飲めば、かなり充実する。昼はまわるのが早い。
まず一軒行って、見知らぬ街が、その居酒屋を通じて少しだけ接近する。ジモティな雰囲気もなんとなく察知できる。
カウンターの向こうにいるおやじさんとひとことふたこと言葉を交わせば、パスポートを手に入れたような気になる。
己の勘に頼った徘徊は、新鮮な発見もあるが、外れも引く。経験的にいうと、よくて十軒入って五軒は外れ。かなり高確率な場所で五分五分だ。場合によっては軒並み外れを喫することもある。それでも下町は値段も安いのでそれほど腹は痛まないのだが。
東京のような大都会は事情通の人たちがたくさんいて、評価軸がしっかりしている。それだけに、長く続けられている店は、地元のコミュニティを土台にしたいい商いをしていて、批評に耐えうる力をもっているといえる。
誰かが「あそこのあれはうまい」といっていた、というような口コミ情報のうちから自分の感覚に訴えるものがあったところを「そのうち行ってみよう」リストとして控えておき、折に触れてそこを訪ね歩いたりすることになる。
地元のコミュニティを土台にして経営している店には、信頼がある。来た人が必ず「うまい」といって食べる一品があって、それを守ってきた店、ある意味、ジャンルを極めているところにはその強みが必ずある。それが「職人仕事」というものだ。