2/3「ラビリンスの残る墨東の町-玉ノ井、鐘ヶ淵(墨田区) - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

f:id:nprtheeconomistworld:20200410083117j:plain


2/3「ラビリンスの残る墨東の町-玉ノ井、鐘ヶ淵(墨田区) - 川本三郎ちくま文庫 私の東京町歩き から
 

それでも一歩路地裏に入ると「ラビリンス(迷路)」と呼ばれた面影がかすかに残っている。かの玉ノ井名物といわれた「抜けられます」の看板を思い出させるような狭い道があちこちに入りくんでいる。そんな道は舗装もされていないし、なかには狭くて肩が両脇の家に擦れてしまうようなところもある。まさに路地裏、“胎内回帰”の雰囲気である。「近所合壁」という言葉を使いたくなる。家の多くはふつうの住宅でときどき飲み屋や小さな工場がある。
路地裏を抜けると大きな商店街にぶつかった。昔の大正道路、いまはいろは通りと呼ばれている。この通りにはあちこちにまだ「玉ノ井商店街」という看板が残っている。これもいずれは「東向島商店街」と変ってしまうのだろうか。
土曜日の昼下り、商店街は活気があった。魚屋、八百屋、豆腐屋と個人商店がたくさんある。ここは「企業の町」ではなくまだ昔ながらの「個人の町」だ。
商店街から十メートルくらい奥に入った路地の突き当りに啓運閣という小さなお寺がある。昔、玉ノ井の「投げ込み寺」と呼ばれたという。水子地蔵があるのがどこか悲しい。名所案内の掲示板には永井荷風の写真が張ってある。お寺の横はスーパーになっていてその前には屋台を大きくしたような感じの八百屋があり買物客でにぎわっている。店の若い衆が威勢のいい声を出し活気がある。値段が安い。わが家の近くの果物屋で五個五百円の紅玉がここでは半分の二百五十円。思わず買ってしまった。
商店街でちょっと家に電話しようと公衆電話に立寄った。ジーンズの女の子が電話をかけていた。聞くとはなしに聞いていると日本語ではない。よく顔を見ると東南アジアの女性だった。それで気がついたのだが最近下町を歩いているとよく東南アジアの青年たちにあう。墨東のこのあたりにはとりわけ多いような気がする。いうまでもなくこのあたりは物価、家賃が安いからである。スーパーで働いている。小さな町工場で働いている。トラックの積荷を降ろす作業を手伝っている。そういう青年たちによく会う。一度、玉ノ井の銭湯から二人連れの東南アジアの青年が出てくるところに出会い驚いたことがある。話しかけるとマレーシアの青年で二人で四畳半のアパートで暮しているといった。
やはり以前、この近くの八広ではイラン人の青年にあった。彼もまた路地裏の小さなアパートに住んでいたがそこはイランから秋葉原や上野に買出しに来る人間たちの共同宿舎になっているといっていた。ホテルでは高すぎるのでこういう下町の木賃アパートを宿にするのである。外国の青年たちが八広とか玉ノ井とか東京のなかでもどちらかといえば知られていない小さな町でよく安い部屋を探すものだとその情報ネットワークの確かさに驚いたことがある。
誰か“先遣隊”が下町に住んでみて物価は安い、都心には近い、見栄を張らなくすむとわかり次々に口コミで伝わっていった結果なのだろう。永井荷風が生きていたら玉ノ井の路地裏から出てきた東南アジアの青年にびっくりしてしまうかもしれない。
この界隈にはまだ銭湯がある。温泉だけでなく銭湯も大好きな人間なので夏場は下町歩きをするときカバンに洗面用具を入れておいて適当なところでお湯を楽しむことにしている。玉ノ井の銭湯にも何度か入ったことがある。
思いつくままに銭湯の名前をあげてみると長生湯、松の湯、寺島湯、玉の湯、中島湯。長生湯は第二長生湯という支店まであるからいかにこのあたりは銭湯文化が健在かがわかる。美人湯というのもある。啓運閣のそばには「薬湯 別府温泉」がある。ここは前から気になっているのだがまだ入ってみる機会がない。「温泉」といっているからには鉱泉か何かなのだろう。
路地裏を歩いていてふと遠くを見るとたいてい銭湯の煙突が見える。玉ノ井のメインストリートであるいろは通りを駅のほうから歩いてくるとその通りの先に見えるのは長生湯の煙突である。ここはもうひとつの“煙突の見える場所”と呼んでいい。
この界隈で銭湯と並んでもうひとつ多いのは五ッ角である。ふつう交差点というのは四ッ角になっているものだが玉ノ井から鐘ヶ淵にかけては五ッ角が非常に多い。「ラビリンス」の名残りなのだろうか。