「人生の四苦八苦(抜書) - 車谷長吉」人生の四苦八苦 から

 

「人生の四苦八苦(抜書) - 車谷長吉」人生の四苦八苦 から

「四苦」とは何か
まず、「四苦八苦」の打ちのめし最初の「四苦」とはなんでしょうか。
それは「生」「老」「病」「死」です。
「生」というのはこの世に「おぎゃあ」と生まれて来ることです。この世とは、苦の世界です。苦の世界に生まれて来ることを、前五世紀の釈迦(俗名ゴーダマ・シッダールタ)は苦しみだと考えたのです。
生まれて来た春寒には、人間は自分がこの世に生まれたということに気がつかない。つまり、自分が苦の世界に放り出されたことを知らない。でも、だんだん年を取って十代になると、この世に生まれて来なければよかった、と考える人も出てくる。
それでも、せっかくこの世に生まれて来たのだから、自分の命を大切にして生きて行こう、と考える人もその中には大勢いるようです。だから、大部分の人は自殺せずに、六十歳、七十歳、八十歳まで、平気で生きて行く。
このように、まずこの娑婆に生まれて来る「生」こそが、苦しみのひとつ名のです。いわば、地獄に生まれて来るようなものです。
それから、次に来るのが「老」です。
ふつう日本では「老人問題」というと、七十歳や八十歳、最近では九十歳とか百歳のおじいさんやおばあさんの問題を指します。しかし、実は生まれた瞬間から「老」ははじまっているのです。そして、だんだん年を取って行くわけです。
ただ、社会の習慣としては、例えば十歳くらいの子供のことを「老人」とは言いません。しかし、老人とは言わなくても、人間は一日一日、一刻一刻、時を失っているわけです。この時を失うことを「老」というのです。
フランスの小説家にマルセル・プルースト(一八七一~一九二二)という人がいます。
この人は、『失われた時を求めて』という大長編小説を書きました。「失われた時」とは、つまり「思い出」ということです。そして、失われた時を求めて、小説を書いていくわけです。いったん失われた時はもう二度と戻ってはきません。
わたしは今、五十七歳です。
ということは、この世で五十七年の「時を失った」ということになります。そして、この「時を失う」ということは、非常に恐ろしいことです。わたしの寿命があと何年あるのかということは、もちろん、一寸先は闇でわかりませんが、一瞬一瞬の時を失っていくということは、非常に恐ろしいことなのです。それを「老」と言います。
「老」は、七十歳や八十歳のおじいさんおばあさんのことだけではなく、生まれたときからすでに、「老」は始まっているのです。
次に、「病」です。
世の中にはおそろしい病気がたくさんあります。例えば、腎臓病や癌、高血圧など。ちょっとした風邪をひいた程度でも、咳やくしゃみが出たり、熱が出たりして、なかなか人間には苦しいことです。このようなことが「病」です。
そして、「死」。これが一番の問題です。

 

人間の最大の不幸
この世に生きている人は、誰も「死」を経験したことがありません。
人間は他人、あるいは親兄弟が死ぬのを見て、「ああ死ぬんだな。」ということを理解するわけです。理解するということは、認識するということです。そうして、死ぬのは厭だな。苦しそうだな。怖いな。」ということを思うわけです。
しかし、実際に死の世界を経験した人は一人もいません。そして、実に人間の最大の不幸は、今生きていても、いずれ自分は死ぬということを知っていること。
死を知ることが人間の最大の不幸なのですが、牛や馬や猫、犬や蛇や蛙は死を知りません。人間以外の生き物は自分が死ぬということを一生知りません。非常に幸せな一生を送るわけです。
人間は、もちろん、生まれた瞬間には、いずれ自分が死ぬであろうことは、まだ認識していません。三つや四つや五つ、あるいは小学生になって、身近な人が死んだり、魚が死んだり鼠が死んだり猫や犬が死んだりするのを見て、いずれ死ぬということを理解するわけです。
釈迦は「生」「老」「病」「死」を「四苦」と言ったわけです。
しかし人間の一番の不幸は、四苦のうちの「死」を知っていることです。死ぬということがどういうことなのか、生きている人間には永遠にわからない。しかし、「生」「老」「病」「死」の「死」は、いずれ死ぬということを知っていることが実に苦しいことだと言っているのです。
だいたい、この世の苦しみの中でも、死にたくないという気持ちは、みんなにあるわけです。死にたくなくとも、いずれ死んでいくことからは逃れられません。若くして死ぬ人もいれば、年を取ってから死ぬ人もいますが、ともかく死は避けがたいものです。避けがたいということを知っていることが、非常に苦しいということですね。

 

「八苦」とは何か
先ほどは「四苦」を説明しましたが、次に「八苦」です。「生老病死」に四つ加えて、八苦と言うのです。
追加される四つ苦しみとは、「愛別離苦[あいべつりく]」「怨憎会苦[おんぞうえく]」「求不得苦[ぐふとくく]」「五蘊盛苦[ごうんじようく]」です。
この「四苦八苦」こそが、人間の運命なのです。
愛別離苦」は、自分の愛する人と別れる苦しみのことです。親に先立たれたり、その逆に子供のほうが先に死んでしまったり、交通事故などで死んでしまったりすることは珍しいことではありません。
わたしの先生に、江藤淳という方があります。奥さんを亡くし、子どももおらず独りになってしまったので、一年も経たないうちに後追い心中で亡くなりました。愛する人と別れた哀しみ、失った哀しみに堪えられなくなったのです。
わたしの生まれ故郷の飾磨でも、交通事故というのはたくさん起こっています。子供が家から飛び出して、自動車にひかれて死んでしまい、嘆き悲しんでいる親は必ずどこかにいらっしゃるでしょう。愛する人と別れる哀しみは世界中に転がっているのです。
次に、「怨憎会苦」です。人間の心というのは大変邪[よこしま]なもので、人のことをすぐ恨んだり、憎んだりします。
例えば、わたしは昔、飾磨中部中学から姫路西高等学校の試験を受けて不合格となり、飾磨高等学校に行くことになりました。わたしと同じ中学の同級生の中には、進学校である姫路西高等学校にまんまと入学した人もいるわけです。そうすると、その人のことがうらやましくなります。うらやましいから憎んだり恨んだりするのです。人間は、そのような邪な心をみんな持っています。自分よりお金持ちの人を恨んだり、自分より容貌が美しい人のことを恨んだりうらやんだりする。そういう怨みや憎しみに出会うことが苦しみなのです。「会」というのは会うことです。憎しみだとか怨みに出会うことが苦しみだということです。
そして、「求不得苦」は、求めて得られない苦しみのことです。
例えば、女の人が宝石を見て「あのダイヤモンドが欲しいな。」と思ったとします。しかし、お金がなく、亭主も甲斐性なしでなかなか手に入れることが出来ない。このように、求めて得られない苦しみというものは、いくらでもあります。
大学に入るとき、東京大学に入りたいと思っても入れない人はたくさんいる。そうすると求めて得られない苦しみに出会います。もちろん、中には求めて得られる楽しみを得る人もいますが、それはごく少数です。だいたい大学の入学試験とは、五倍とか六倍とかの競争率というものがあり、五人受けたら一人しか受からない。他の四人は求めても得られない苦しみを味わうわけです。
あるいは、お金が欲しいと思ってもお金が得られないなどの、求めて得られない苦しみです。
最後に、八番目の「五蘊盛苦」です。人間には「五蘊」というものが備わっています。「五蘊」が盛んになることが苦しみとなります。それについて今から説明します。

 

五蘊」という苦しみ
「色[しき]」「受[じゆ]」「想[そう]」「行[ぎよう]」「識[しき]」という五つのものが人間には備わっています。この五つのものを「五蘊」と言います。「五蘊」が盛んになることが苦しみなのです。
まず最初に、「色」とは何か。
簡単に言えば、「肉体」ということです。肉体とは、先ほども申し上げたように食欲と性欲であり、それが盛んになることによる苦しみです。
「あの女欲しいなあ。」と思ってもなかなか女がこっちを見向いてくれない場合があります。その逆の場合もありますね。それが性欲の苦しみです。「ご飯食べたいなあ。」と思っても食べられない人は、世の中に、この地球上に、たくさんいます。この日本でも、わたしがうまれた終戦のころは、飯が喰えない人はたくさんいました。わたしの実家は飾磨の農家だったので、大阪や京都など都会のほうから買い出しに来る人がありましたね。
次に、「受」です。これは感覚、感受性のことです。ものを感じやすいという、感覚が鋭くなることを苦しみだというのです。
そして、「想」。これは想像力です。いろいろなことを思い浮かべることです。「あのダイヤモンドの指輪欲しいなあ。」とか「あの高級車欲しいなあ。」とか「外車欲しいなあ。」とかいろいろ思い浮かべたり、あるいは「スイスにスキーに行きたいなあ。」とか思い浮かべたり想像力こそが苦しみだというのです。
それから、「行」です。これは例えば、「会社を辞めます。」とか「あの人と結婚します。」という、意志のことです。人間の意志が盛んになることが苦しみなのです。
最後に、「識」です。これは認識ということです。
認識というのは、非常に簡単に言えば「世の中とはこういうもんだ。」とか、「女とはこういうもんだ。」とか、「男とはこういうもんだ、」とかいうように俗語で言う「もん」なんです。
「人間とはこういうもんだ。」とか、「お金とはこういうもんだ。」とか「会社とはこういうもんだ。」という、「もん」はよく言われる表現です。「もん」が認識なのです。そして、それが盛んになることことが苦しいのです。 
このように、業というものを人間はみんな背負っているわけです。それを言い直せば、運命を背負っているというわけですね。そして、その運命というのは何かと言えば、四苦八苦を背負っているということです。この世は苦しみの世界だということです。それが釈迦の世界観です。
人間の四苦八苦を書くのが、自分の運命についてあるいは他人の運命について書くのが、文学ということなのです。