(巻三十五)靴磨き靴見て老いぬ鰯雲(倉田春名)

(巻三十五)靴磨き靴見て老いぬ鰯雲(倉田春名)

1月27日金曜日

曇天なり。

朝家事は特になし。午後からは天気が崩れるとのことで午前中に図書館と生協へ行く。

図書館では『角川俳句1月号』ほかを借りた。途中のポストで、

地域猫プラトニックな猫の恋(亀)

と凡句を投函し、ウイスキーのポケット瓶、ピーナッツなど買って帰宅。

俳句など捲っていると台所でドスンと云う音と、キャッという声がした。細君がまた麦茶の筒を床に落として床をビチョビチョにした。教訓に従い、黙々と拭き掃除を致した。

そのあと昼飯を喰って、一息入れて、散歩には出かけず俳句を捲り、

左遷とは言はないまでも秋の風(佐藤真次)

行く夏やホテルの窓の隅田川(北田しのぶ)

小走りの乳房の揺るる豊の秋(橋本世紀男)

を書き留めた。

『角川俳句』がまた薄くなった。まっ、それはいいのだが年始巻頭の爺さん婆さん句の列挙で勿体ない。

寒いことは寒いが、6時までは耐えていられる。この分ならエアコンは使わないだろう。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

地域猫プラトニックな猫の恋(亀)

なんぞ詠んで、クロ、サン、フジ、コン、トイと勝手に呼んでいる猫たちにスナックをあげて親しんでいるが、嫌いな人は猫を目の敵にしているようだ。段ボール箱のシェルターを潰したり、水飲み皿をひっくり返すらしい。そこまでならまだ陽性だが、陰湿な猫殺しもあるらしい。そのあたりのことが書いてあった作品を読み返してみた。

「東京野良猫ストーリー - 佐々木幹郎」猫なんて!から

深川には運河が多い。しかも干潮のときと満潮のときとで水の流れが逆さまになる。橋の上から川面を見ていると、水母が身体を浮き沈みさせながら何匹も通り過ぎる。銀座から車でわずか十分の土地でありながら、ここには海の匂いがする。

深川はもともと葦の生い茂る湿地帯だった。江戸初期から徐々に埋め立てられて人が住むようになったのだが、長い間、いわば「新大陸」のような機能を果たしていたようだ。外からやってくる人間はだれでも気軽に住み着くことができ、いったん住み着くとそこで親密な共同体ができあがる。エレキテルを実験した平賀源内が住み、没落してからの紀伊国屋文左衛門が住み、日本地図を作った間宮林蔵が住んだ。へんな人たちがいっぱいいたのである。

共同体をつくったが、それぞれの個性を重んじて、必要以上に干渉しない。それがかつての隅田川左岸の埋め立て地の文化であり、今の下町にもその気風が受け継がれている。

> 深川を散歩していると、やたらと野良猫たちに出会う。この町には狭い路地が多いので、猫たちの住居空間がいくらでもある。考えてみれば、江戸期にこの埋め立て地へ流入してきた人たちも、野良猫として深川に住み着いてしまったのだ。この地を起点に、「奥の細道」に旅立った芭蕉もその一人だった。

アスファルトの上に、猫がいる。ふりむくと、猫がいる。

野良猫たちに餌をやる「猫おばさん」も、町内に必ず一人はいて、近所の人が迷惑がっても、こっそりと路地の隅に餌箱を置いている。以前住んでいた深川では、合計十匹あまりの野良猫たちの世話を、近所の「猫おばさん」が続けていた。この人はこっそり世話をするどころか、街路樹の下に段ボールで二階建ての猫の家を作り、家の前には看板を出していた。「ここにいるのは、代々の野良猫です。勝手に餌をやらないでください。餌を見つけると捨てます」

最初、この看板を見たときはなんのことかわからず、「代々の野良猫」という文句に笑ってしまった。野良猫のプライドをこのおばさんは代弁しているのだろうか。

「勝手に餌をやらないでください」というのは、自分がやる餌ならいいが、他人が餌をやるのは拒否するということで、なんと偏屈な猫おばさんなのか、と思った。しかし、後々このおばさんの憤りの気持ちが理解できるようになったとき、なんと、わたしは「猫おじさん」になっていたのである。

猫おじさんとして言えば、日々、餌を求めて路地裏から集まってくる猫たちに、気まぐれに餌をやる手合いがいちばん恐いのである。何が餌箱に入っているのかわからない。猫嫌いが、毒入り饅頭を入れているかもしれないではないか。だから他人の餌が入っていると、猫おばさんは捨てるのである。

> この前も、こんなことがあった。わたしの住んでいるアパートのベランダから深夜、路地を見下ろしていると、一人の青年が猫の餌箱の前でうずくまり、煙草を吸っていた。餌箱の近くに、トラがいた。トラは路地裏で生まれて以来、二年たってようやくわたしになついてきたトラ縞の雄猫である。

> トラは過酷な日常を生き抜いてきた。子供時代は神社の草むらで昼寝をするのが日課だったが、猫嫌いの神主に見つかると逃げ回った。大きくなるにつれて、人間が近づくと歯を剥き出して威嚇し、フーッと鼻息荒く怒った。怒っているのだと思っていたのだが、どうやらトラはこういうコミュニケーションの仕方しか、知らないようなのだ。日々、餌をやりつづけているうちに、声をかけても最初はフーッと唸るだけだったのが。やがて、フーッの次にニャーの声がときおり出るようになった。遅ればせながら。猫の文化が身についてきたのだ。

男はトラに話しかけているようだった。警戒心旺盛なトラは、男のほうに近づかない。猫好きの一人かな、と思ってみていると、彼は立ち上がる前に餌箱に近寄って何かをふりかけ、そのまま去っていった。

路地に下りて餌箱を見ると、猫用の乾燥食の上が濡れていた。匂いをかいでみると、甘い香りがする。ミルクではない。餌箱を洗うと泡立った。どうやら風呂帰りにシャンプーらしきものを餌の上に注いだらしい。

青年はその翌日も、深夜の同じ時間にやってきた。私はベランダの上で見張りをした。彼は周囲を見回してから、いきなり服の内側に忍ばせていたシャンプーを取り出し、餌箱の上にふりかけた。周囲を見回してから、こっそりふりかけるところをみると、この青年は自分のしていることが犯罪なのだ、というのがわかっているらしい。しかし、なんのためにそういうことをやるのか。悪戯なのか、冗談なのか。たんに猫嫌いなのか。

わたしは再び、餌箱を洗った。餌を運河に捨てると、洗剤特有の泡が流れた。

その翌日、また青年は同じ時間に、通りの向こうから歩いてきた。青年が餌箱の近くにうずくまるのを見てから、路地に下りた。そして彼の近くに歩いていって、何気なく声をかけた。

「いつも餌をやってぐたすってるんですか?」

男は驚いて、気弱に答えた。「ええ」。あわてているようだった。そのまま彼は立ち上がり、来た道の方向に戻っていった。それ以来、彼は現れない。

東京という都会は、こういう青年をつくるのである。野良猫を殺すという気持ちもなければ、自分が何をしているのか、というはっきりした自覚もない。都会の中で自分より弱いものを見つけて、こっそりイジメてみる。そこにどんな快感があるのか、わたしにはわからない。

野良猫たちはこういう人間とも戦いながら、生きていかねばならないのである。