「人は死ぬとどうなるのか - 中島らも」中島らもエッセイ・コレクション から

 

「人は死ぬとどうなるのか - 中島らも中島らもエッセイ・コレクション から

丹波哲郎氏の映画『大霊界』を不覚にも見てしまった。バスの転落事故で死んだ主人公の男性が昇天していく横っちょに、いっしょに死んでしまったペットの「犬」の霊がくっついて天に昇っていくところでは大声で笑ってしまった。可愛かったのである。あと、若山富三郎千葉真一が「神さま」の役で出てくるところも笑った。ことに千葉真一は長髪のカツラをかぶっているのだが、あれほど長髪の似合わない人もいない。吹き出してしまった。
雑誌で読んだところによると、丹波哲郎氏があまり事細かに霊界のことをしゃべるのに疑問を持った人が、
「どうしてそんなことを知っているんですか」と氏に尋ねたところ、氏は胸を張って、
「見たんだから仕方ない!」
と答えたそうである。並たいていの人物にできる返事ではない。
死後の世界について、「嘘でもいいから」教えてほしい、というのは人間の「業」みたいなものなのだろう。この世の生き物の中で、自分が「生きている」ということを自覚できるのは人間だけであって、「生きている」ことの反対の観念として「死んでいる」状態が想定されている。その「死んでいる状態」についてさまざまな憶測が生まれてきて、そこに宗教が成り立つ地平があるわけだが、考えてみるとこれは人間のロジックや言語による思考が生み出す錯覚のひとつではないだろうか。「生」の対立概念として「死」というものを持ってくるから話がおかしくなる。「死」という言葉が存在する以上、「死」は存在のひとつの状態をさし示すことになる。つまり「死」は存在形態のひとつとして「在る」ものなのである。ではどういう状態で「在る」のか、というところから死後の世界のような概念が生まれてくる。これが言語がもたらしたそもそもの錯覚なのではないだろうか。
厳密に考えるなら「生きている」の反対概念は「死」ではなくて、「生きていない」でなければならない。「生」というものが「在る」ものならば「生きていない」という言葉は「無」を意味するはずである。「生きている」か「生きていない」か、この二つのありようのどちらかなのであって「死」という状態は想像力によってのみ想定され得る架空の概念でしかない。

「死後の世界」という考え方を一度捨てて「生きていない」状態について考えてみよう。これに関してはジョルジ・バタイユの「連続」と「不連続」という考え方をあてはめると面白い。ここでの「連続」とは「種」としての生命の縦軸の連なりを示している。これに対して「不連続」とは各個体の死によって起こる断ち切れを示す。たとえば人間という種の生命を考えてみるとよくわかるのだが、人間は極端な言い方を許してもらえるなら、別に死ぬ必要はない。一個の巨大な「原人間」みたいなものがあって、それが新陳代謝をくり返しながら半永久的に生きていく、という存在形式だって考え得るのだ。ただ人間及び地球上の生物はその形態を選ばなかった。多数の個体に分かれて、各個体は死によって消滅するが生殖によって種としての生命は連続していく形態を「選んだ」わけである。一人の「原人間」の形態を取っていれば、たとえば「知識」といったものはどんどん蓄積していって最終的には「神」のような全知全能の存在になり得るかもしれない。多数の個体に分かれる方式では生まれるたびにスタート地点から始め、ほんの少しずつしか進化できないので効率は非常に悪いと言える。ただ、たとえば氷河期や大地震といった地球規模の異変を考えた場合、種の生命が持続する可能性は多数の個に分かれていたほうがはるかに高くなる。原人間ではそいつが死んでしまえば種はおしまいなのだ。多数の個に分かれていればそれらは一部生き残り、適者生存して地球の状況にビビッドに対応しながら進化していくことができる。我々が個に分断され、死の因子を遺伝子の中にプログラムされているのはまさにこのためである。種としてのフレキシビリティを保つためには全体を有限の個によっと構成しなければならない。我々の死、つまり個々のフレキシビリティが全体の連続を支えているのだ。その意味では我々は「永遠に死なない」と考えても誤りではない。
たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなくて限りない生なのだ。僕は精子卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を越えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。
こういう考え方をすれば「死後の世界」みたいなものはどこにも存在しないことがわかる。僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。唯我論的存在論は別にして、少なくとも種としての生命から僕という個を見ればそういうことである。僕は個であると同時に種の一部である。一にして全であり、全てであると同時に何者でもない。こう考えていくと天国だの地獄だのの虚妄に惑わされることもない。やはり『大霊界』を見てよかった。丹波先生、どうもありがとう。