(巻三十五)花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく(真鍋呉夫)

(巻三十五)花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく(真鍋呉夫)

本日の句をもちまして、巻三十五の読み切りでございます。巻三十五を追って一挙掲載いたします。

やや寒い朝だが重ね着はせず。

図書館のシステムにアクセスできない。表のページから行っても繋がらない。

朝家事はなし。毛布を干す。

俳壇を届けてくれたが、書き留めたくなる句、なし。

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけた。図書館により3冊借りたが、システムを使って滞りなくできたし、システムについての御断りも掲出されていないので、何も訊かずに退出した。

そこから猫巡りをしたが、皆さん不在だ。

帰宅して図書館システムにアクセスしたが、やはり開かないので中央図書館に電話したら“システム不具合でご迷惑をお掛けしております。”とのことだった。予約ができないが、困るというほどのことでもない。まっ、いっか⁉

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

検診の結果がよかったので安ウイスキーのポケット瓶とクズ・ピーナッツで寝酒を始めた。そう長く寝酒を続けるつもりもないのでポケット瓶にしておいたのだが、正解だった。酒の弊害は出ていないが、ピーナッツが止まらず消化不良気味だ。ピーナッツは止まらない。そのことについては東海林さだお氏がお書きになっている。

「「ピーナツのなぞ」を追って - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

放蕩の夜のむなしさよ落花生(小寺正三)

「「ピーナツのなぞ」を追って - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

「ナットウは糸を引くが、ピーナツはあとを引く」という名言がある。(さっき、ぼくが作ったんだけどね)

ピーナツをなんとなく食べ始めて止まらなくなった、という経験はだれでもあると思う。

タツでテレビを見ていて、ふと目の前にピーナツの袋があるのを発見する。

何気なく手を出し、「ほんの二、三粒」のつもりで食べ始めると、これが止まらなくなる。二、三粒どこらか、ふと気がつくと、すでに三十粒ほど食べていて、目の前に大量のカラや皮が散乱していてびっくりすることがある。

ピーナツは食べているうちにはずみがついてくる。次第に熱中、没頭、興奮してきて、なにかしらこう、狂おしいような気持ちになっていくのである。

> 一粒口に入れ、それがまだ口の中にあるのに、手はすでに次の一粒を無意識につかんでおり、それを口の中にせわしなく放りこむと、また手が次の一粒をつかんでいる。

その速度も次第に速くなっていき、口の咀嚼速度より手の動きのほうが速くなり、口の中にはピーナツがどんどんたまる。かくしてはならじと、咀嚼速度を速めると、手の動きもそれにつられて速くなり、互いに競争みたいなことになって、視線はいつのまにか中空を漂い、アゴはあがり、必死の様相を呈してくる。

ピーナツを必死に食べなければならない事情は何もないのだが、なぜかそうなる。

これがカラつきのピーナツであった場合は、コタツ板一面にカラおよび皮が散乱し、コタツ板からこぼれ落ち、「ああ、これを何とかしなくちゃ」と思い、その思いとあたり一面の様相が一層惑乱を誘い、目は血走り、口中のピーナツをメチャメチャに噛み砕いてだんだんアゴが痛くなってくる。それでも手は絶え間なく袋の中のピーナツにのび、「ああ、こうして自分はダメになっていくのだ」などとヘンなことを考えたりする。

ダイエットをしている人は、これに「ピーナツはカロリーが高いから、このへんでやめなくては」の思いが加わり、逆上、錯乱、自己嫌悪、さまざま入り混じり気も狂わんばかりになる。

> それでもようやく何とか冷静さを取り戻し、「ハイッ。おしまいッ」と声に出して自らを励ますようにいって、とりあえず、胸元などの皮を振り払う。

ピーナツの袋を閉じ、輪ゴムで厳重に縛って、二度と手を出せないようにわざと遠くへ放り投げる。疲れきって横になる。しかし、しばらくすると、ムックリ起きあがり、放り投げたところに這って行って取り戻してくる。

厳重に縛っておいた袋を苦心してほどき、「こんどは本当に二、三粒だけ」と言うわけしながら一粒口に入れると、あとは一瀉[いつしや]千里、たちまち三十粒となる。

三十粒でふと我に返り、こんどは「二度と手を出さないように」わざわざ立ちあがって行って、手の届かないタナの上に放りあげたりする。

「やれやれ」などといってコタツに戻り横になるが、またしばらくするとムックリ起きあがり、物置に行って踏み台を持ってきて、タナの上のホコリにまみれたピーナツの袋を引きずりおろしたりする人もいる。(ぼくのことだけどね)

この魔力は一体何であろうか。

「だってピーナツって、煎った豆独特の香ばしさがあっておいしいもの」

という意見もあるだろう。

むろん、それもある。しかし、それだけだろうか。

「堅く締まった豆を、カリッと噛み砕く快感」をあげる人もいよう。

むろん、それもある。しかし、それだけだろうか。

それだけのことで、人はピーナツに狂乱するであろうか。

われわれ取材班は、ピーナツあと引きのナゾを追って、ただちに取材活動を開始した。(取材班といってもぼく一人だけどね)

ただちに取材先におもむくと(スーパー)、カラつきとハダカの二袋を購入して戻ってきた。取材費は三百九十八円であった。

まずカラつきのほうを試してみる。

そうして、まずわかったことは、「手作業との関連」である。

あとを引く食品は、ピーナツのほかに、天津甘栗、「やめられないとまらない」のカッパエビセンなどがあるが、いずれも手作業がからんだ食品である。

いずれも一つずつ、手でつまんで食べる。そしてこれらに共通していることは、それぞれの一個が、口中に入れる食品の単位としては極めて小さいということである。

だから、連続的に食べていながら、口の中は常に口さみしい状態にある。

口さみしいので次の一個を急ぐ。

カラつきの場合は、次を急いでいるのに、その間になすべきことがあまりに多い。指に力を入れてカラを割り、指を突っこみ、押し開き、豆をつまみ出し、親指と人さし指でよじって皮をむき、払い落とし、ようやく口中に投入する。

投入したとたん、口の中のほうは次を催促する。したがって当人はもどかしくあせる。もどかしくあせりつつ、ようやくまた二粒ほどを手中にし、あわただしく口中に放りこむと、口はまた次を催促する。当人はあせりにあせり、次第にヒナ鳥に餌を運ぶ親鳥のような心境になっていく。これが、「狂乱に至る病」の最大の原因ではないだろうか。

ハダカとカラつきを比べれば、カラつきのほうがはるかに手間ひまがかかる。

よく考えてみれば、要らぬ作業ではないか。カラをむいてあったほうが、はるかに食べやすいはずだ。

人々がすべてそう考えるならば、カラつきピーナツはとうの昔に絶滅しているはずである。しかしスーパーでは、カラつきとハダカを並べて売っている。これはなぜであろうか。(どうもなんだか、次々にいろんな問題が派生してくるが)

われわれ取材班は、さまざまな討議をくり返した結果、「手作業を懐かしがっている」という結論に達したのである。

いま、道具は機械化され効率化され、最終的には押しボタン化されている。

手はすっかりヒマになった。

手は“窓際”に押しやられた。

かつては有能なビジネスマンであった手は、いま、窓際にさみしくすわっている。その昔、鉛筆をナイフで削れた手、あやとりなどという微妙で細やかな動きをなしえた手、コヨリなども難なく作りあげた手は、その昔の動きを懐かしがっているのである。

そうして、ようやくめぐりあった仕事、すなわちピーナツのカラ割りを、大喜びで受けとめているのである。