「明るい自殺 - 東海林さだお」人間は哀れである から

 

「明るい自殺 - 東海林さだお」人間は哀れである から

つい先日、近所のスーパーマーケットでこういう老人を見た。
その老人は、かなりくたびれてはいるがかつては上等だったであろう上下そろいのスーツを着ていた。
その下は小ざっぱりした白いワイシャツでネクタイはしていない。
年齢は七十二、三歳だろうか。
フチなしのメガネをかけ、白髪まじりの頭はいちおう七・三に分けられている。
老人は少しヨチヨチした足どりで、スーパーマーケットの人混みの中を、人の流れと反対の方向から歩いてきた。
老人は両手に何も持っていない。
スーパーマーケットの中の人は、必ず手に何かを持っている。少なくともスーパーのカゴを持っているものだ。
老人は首をまっすぐにして歩いていた。
スーパーマーケットの中の人の視線は必ず下を向いている。
商品を一つ一つ見るため、首を前に傾けているはずだ。
老人が、このスーパーマーケットをただ通過するために歩いているのではないことは、ときどきコーナーを曲がったり、また戻ったりしていることでわかる。
老人の目は何も見ていなかった。
そして、ズボンのファスナーが全開であった。
そこから白いブリーフのようなものが見えていた。
老人の服装が小ざっぱりしているということは、この老人の世話をしている家族がいることを物語っている。
この老人の毎日はどんなものなのだろう。
朝起きて、ゴハンを食べる。
もはや朝刊を読む習慣はないにちがいない。
そして家族に服装を整えてもらう。
老人はフラフラと家を出て徘徊を始める。
その日、老人は途中どこかのトイレでおしっこをしたにちがいない。
そのあとスーパーマーケットに入ったにちがいない。
おしっこをしたとき、ズボンのファスナーをしめ忘れたのだ。
でもいまのところは、ブリーフの外に出したものを、用を済ませたあとブリーフの中にしまうという意識はまだ残っている。
だが、この意識がなくなる日は近い。
少なくとも一年後にはなくなっているはずだ。
そのとき彼は、ブリーフの中にしまうべきものをしまわずに、スーパーマーケットの人混みの中を歩いているはずだ。

 

いま、誰もがこういう老人になる可能性がある。
あなたも、いずれスーパーマーケットの中を、ブリーフの中にしまうべきものをしまわずに歩いて行くことになるのだ。
いや、オレはならん、そんな恥さらしなことは絶対にせん、と言っても、そうなってしまったときには、当人にはモノが出ているという自覚がまるでないのだ。
いまどんな決意をしても、そんなものは何の役にも立たないことは、これまでのたくさんの事例が物語っている。
この老人は、日本人には珍しくホリの深い顔をしていた。
フチなしの上等らしいメガネ、上等らしい服装から考えれば、つい十数年前までは相当な地位にあった人なのかもしれない。
銀行の重役だったかもしれないし、文部省の高級官僚だったかもしれない。
大きなビルの大きな机にすわってハンコを押しながら、自分が十数年後、スーパーマーケットの中を、モノを出したまま徘徊している姿を想像していただろうか。

こういうふうになってしまったあとの彼の人生とは一体何なのだろう。
まだモノは出していないのに、出していることにしてしまって彼には申しわけないが、出してしまったことにして話をすすめたい。
いま彼は何のために生きているのか。
こうなったあとも、彼はさらに五年、十年、十五年と生きていくにちがいない。
その五年、十年、十五年にどういう意味があるのだろう。
男は、自分の尊厳を守るために生きている部分がかなりある。自分のエネルギーの、少なくとも三〇%ぐらいはそのために費やしているのではないだろうか。
男は、人に馬鹿にされることを嫌う。
人に疎[うと]んじられることを嫌う。
人に軽蔑されることを嫌う。
人に尊敬されることを好む。
そのために彼は精一杯の努力をしてきた。
自分のエネルギーの三〇%をそのために費やしてきたのだ。
その彼が、いまこうして、モノを出したまま人混みの中を歩いている。(まだ出してないって)
人間は、人間としての尊厳を守って生きてこそ人間ではないのか。
恥さらし、という言葉がある。
恥さらしなことだけはしたくない、というのが誰もの願いだ。
だが、まさにこの老人はいま“恥さらし”のまっただ中にいるのだ。
これからの人生の毎日毎日が、恥をさらす毎日となるのだ。
この老人は、いまのところ徘徊だけのようだからまだいい。
世の中には、うんこを壁になすりつける老人とか、夜中に大声で叫びつづける老人とか、ゴミを拾ってきて家中、庭中に積みあげる老人とかもたくさんいるといわれている。
ぼくももしかすると、十数年後、一生懸命自分のうんこを壁になすりつけているかもしれない。
夜中に大声で叫んでいるかもしれない。
そうはなりたくない、そうはしないつもりだと、いまいくら言っても、こればっかりはどうにもならないのだ。
いまの自分は、将来そうなった自分を許せるのか。
許せる人はいないだろう。
自分の尊厳だけの問題ではない。
そうなってしまった自分を、介護する人たちの問題も考えなければならない。
自分の恥しらずな行為のために、周辺の人たちに大変な迷惑をかけることになる。
呆け老人を介護するほうが参ってしまって、死んでしまったという話もよく聞く。
現状では、介護は家族によって行われている。
介護というのは、一人の人生のために、もう一人の人生のほとんど全てを犠牲にすることである。
もう一人の人生を奪うことである。
そういう事例はいまや枚挙にいとまがない。
呆け老人になってしまった人の人生は、ほとんど意味がない。
当人にとっても、もちろん意味がない。
自分がもう何者であるかさえもわからないのだから、意味を問うことさえ無駄なことだ。
周辺の人にとってももちろん意味がない。意味がないどころか迷惑そのものである。
そんな意味のないことのために、自分の人生を犠牲にするぐらいむなしいことはない。
しかしそれは仕方のないことなのだ、というのがいまの道徳律ということになっている。
はたしてそうだろうか。
高齢化社会といういままで人類が一度も経験したことのない現象に直面して、人々はいま混乱している。
設備も制度も混乱している。
そして道徳律も混乱しているのだ。

 

これからの人間は、二つの人生を強いられることになる。
呆けるまでの人生と、呆けてからの人生の二つである。
呆けるまでのその人と、呆けたあとのその人は別人である。
人中[ひとなか]でモノを出さないことを信条として生きた人間と、出して平気という人間は別人間ではあるが当人であることもまちがいない。
一番悲しいことは、前半の当人が、後半の当人に全く責任が持てないことだ。こんな無責任な人生ってあるのだろうか。
自分の人生に責任を持てない、なんてことがあっていいのだろうか。
将来、モノを出して人混みの中を歩いたり、うんこを壁になすりつけたりする自分をなんとかして阻止したい。
阻止して自分の人生に責任を持ちたい。
阻止して自分の尊厳を守りたい。
自分の尊厳は自分でしか守れないのだ。
一体どうすればいいのか。
方法は一つしかない。
自殺である。
自分の人生に責任を持つために、自分の尊厳を守るためには、呆ける前に自殺するよりほかはない。
ほんとうにもう、これしか方法がないのです。
自殺……と聞いて、ホラ、あなたは急に暗い気持ちになったでしょう。
確かに自殺はあまりにも暗い。
しかし暗いのは現行の自殺……というのはヘンか、いま実際にあちこちで行われている自殺は確かに暗い。
周辺にも多大な迷惑をかける。
家族も肩身の狭い思いをする。
このどうにも暗い自殺を、なんとか明るい方向へ持っていけないものだろうか。
自殺は、自分の人生に自分で結末をつけることである。結末をつけることによって、自分の人生に責任を持つことである。
自分の人生に自分で結末をつけてなんのいけないことがあろう。
自殺はむしろ崇高な行為といえるのではないか。
前半は責任持つけど後半はどうなってもしらないよ、という人生のほうがむしろ卑怯といえるのではないか。

というふうに、みんなが考えてくれるようになるととってもいい方向に向かうと思うのだが。
ま、崇高とまでは言わないが、自殺が普通のこと、としてとらえられるような時代はこないものだろうか。
「お向かいの田中さんのご主人、ゆうべ自殺なさったんですって」
「ああ、そろそろだと思ってたんですよ」
などという会話が、ごく普通に語られるような時代が来ないものだろうか。

そのためには、これから様々な対策が講じられなければならない。
まず自殺という言葉を改めなければならない。少なくとも“殺”という字を取り去ることが必要だ。
自死、うん、これも暗いな。
そういえば、昔からいい言葉があるではないか。
自決。
潔さがあるし自殺よりいくぶん明るいような気がする。
当分これでいきましょう。そのうちいい横文字なんかも考えられてくるかもしれない。
それから方法も改善されなければならない。
現行のものは、世間から認知されていないゆえに非合法にならざるをえない。
もっと明るい方法、さらに一歩進んで楽しい方法が考えられなければならない。
これだけ生きるための医学が進歩しているのだから、死ぬための医学など簡単なはずだ。
夢みるように死ねる薬など、すぐにも開発できるはずだ。

 

だが、ぼくが生きているうちには、まずこういう時代は来ないだろう。
つまり間に合わないわけだ。
だから現状の中で取りうる最善の方法というのを考え出さなければないない。
なるべく周辺に迷惑をかけず、なるべく苦しまず、なるべく楽に死ねる方法はないか。
ぼくが考えのはこうだ。
まず長年かけて睡眠薬を溜めこむ。
睡眠薬ウイスキーを用意する。
これを持って、冬、雪の降る日に樹海に行く。
樹海で死ねば人に迷惑をかけないというわけではないが、他の方法よりはその度合は少ないと思う。
睡眠薬と凍死という二重装置を施しておけば確実に死ねるにちがいない。
聞くところによれば、凍死をするときはとてもきれいな夢をみるそうだ。
うっとりと、夢みるように死んでいくと言われている。
樹海に入っていく時間はやはり夕方ということになろう。午前中からというのはなんだか気が引ける。
雪の中を入っていくのだから多少の装備は必要だ。
トレッキングシューズにリュックサック。リュックの中には一人用のテント、死ぬのに充分な睡眠薬ウイスキー一本、いや、足りないと困るから二本。
ウイスキーを飲むのだから水が必要だ

2l入りを一本、いや、二本。
ウイスキーを飲むのだから当然おつまみも要る。
そんなこと言ってる場合か、ガブガブッて飲んでさっさと死んでしまえ、と言うかもしれないが、どうせ死ぬならなるべく楽しく死にたい。
楽しく酔って、夢みるように凍死したい。
どうせ死ぬのだから、おつまみは自分の好きなものを用意したい。
まず魚肉ソーセージ、さつま揚げ各種、それからワサビ漬、それからカマボコ、カマボコは紅白そろえて持っていくのはまずい。
紅白はお祝いごとだしな。
そうそう、カマボコとワサビ漬があれば板ワサにすることもできる。
それからメザシも食べたい。ぜひ食べたい。ぼくはメザシが大好きなのだ。
そうなるとメザシを焼くコンロが必要になってくる。
アウトドア用のバーナーがあるが、あれを持っていこう。
しかし、なんだかだんだんキャンプじみてくるなあ。
刺身関係はどうか。
刺身はなんだか自殺には似合わないような気がする。
あと柿ピーとかの乾きものを何種類か用意する。
そういったものをサカナに、まずウイスキーの水わりをグイーッと飲む。
あ、でもやっぱりその前にビールをグイーッと一口飲みたいな。
ということは紙コップが要るということになる。
お箸も要る。
というようなやや宴会じみた状況になるわけだから、午前中からというのはやはりまずい。
途中、途中で睡眠薬を飲む。
やっぱり相当寒いだろうな。
ホカロンも要るな。
死ぬのは明け方ごろだろうから、それまでは寒いより暖かいほうがいい。
明け方ごろには、体といっしょにホカロンも冷たくなっているはずだ。
あー、酔いがまわってきた。
睡眠薬も効いてきたようだ。
この酔いは、いつもの晩酌のときの酔いと変わりない。
いつも、このように酔い、このように眠くなっていき、そのまま眠りに入る。
その酔いと少しも変わらない。あした起きないということが違うだけだ。
遠くから犬の遠吠えが聞こえてくる。
生きているうちは、野犬も襲ってくることはないだろう。
あー、眠い。
とりあえずゴロリと横になることにしよう。
テントのすきまから、シンシンと降る雪が見える。

問題はいつ決行するかである。
この問題が実は一番やっかいなのだ。
まだ大丈夫、おれはまだ呆けていない、ホラこんなに判断力だってある、と、決行を先にのばしているうちに、いつのまにか呆けていたというのが一番こわい。
呆けてしまってはもう何もかもおしまいなのだ。
かといって、早まるのもいけない。
まだ十年は大丈夫なのに、
「こういうことは判断力があるうちにしないと」
決行してしまうこともありうる。
寸前というのが理想的だが、その寸前の判断がむずかしい。
など迷っているはずなのに、実はすでに呆けているということもありうる。