「赤ひげ医師・熱血医師・愚かな医師(抜書) - 春日武彦」精神科医腹の底で何を考えているか から

 

「赤ひげ医師・熱血医師・愚かな医師(抜書) - 春日武彦精神科医腹の底で何を考えているか から

何を基準に処方しているのか

ハルシオンという睡眠薬がある。かつては睡眠薬の売り上げでトップを占めていた。ところがいわゆる「睡眠薬遊び」や、アルコールにこれを混ぜて女性に飲ませて人事不省に陥ったところで暴行に及ぶなどの事件が重なり、また繁華街では一錠が何千円もの価格で取引きされたこともあり、すっかり悪名が広まってしまった。さらに、老人では副作用、リバウンドをきたすがために事実上の依存になりやすいなどから、処方される機会が減っていった。決して悪い薬ではないが、かなり不用意な使われ方をされたり悪用されたがために評判を落とした薬剤なのである。
認知症の老人がいて、夜になるとわけの分からないことを口走りながら徘徊したり、時には興奮をする。こういった症状(夜間せん妄)は珍しくない。認知症に伴いがちな諸症状の治療には何種類かの薬剤が候補に挙げられるが、睡眠を確保するという意味で眠剤が一緒に処方されることは多いし、決して間違った考えではない。ただしその際にハルシオンを選んだ医者がいたとしたら、その人の臨床能力には疑問符が付けられても仕方あるまい、相応の理由があって選択したというよりは、睡眠薬にはいつも機械的ハルシオンと処方箋に書いているだけであり、また副作用や臨床上の留意点を把握していなかった可能性が高いからである。
このように、処方から見ただけでその医師の臨床能力が判明するケースがある。そのいっぽう、判断には但し書きが必要と思われる場合もある。
たとえば作家の故・中島らもは、アルコールや薬物への依存傾向に加えて躁うつ病を患っていた。『心が雨漏りする日には』には、彼が服用していた処方内容が載っている。一日のトータル服用量をまとめると、
・炭酸リチウム600mg
デグレトール450mg
ウインタミン50mg
セレネース3mg
アキネトン6mg
・ピレチア20mg
ロヒプノール4mg
であり、これに便秘薬などが加わる(向精神薬を服用すると便秘をきたしやすいため)。
この処方の妥当性はどうであろうか。躁うつ病(躁もうつも、両者が交互に出現するタイプ)には炭酸リチウムが第一選択薬であり、投与量も妥当である。デグレトールは、躁傾向や衝動性などを抑えるためと思われる。したがって躁状態ならば分かるが、うつ状態でも延々と処方されているとしたらやや首を傾げる。ウインタミンも気分を落ち着かせる目的であろう。うつ状態でも必要が否かは疑問であり、セレネースに至っては幻覚妄想に使われる薬である。躁状態では誇大妄想が出るので、その対策かもしれないが(あるいは感情の揺れが激しい統合失調症の患者に対する、やや変則的な処方かもしれないと考えたくなる)、四六時中服用させるべきではあるまい。アキネトンとピレチアは、どちらも副作用止めであるが、普通は二種類を併用したりはしない。ロヒプノール睡眠薬であり、4mgはかなりヘヴィーである。ただし中島は睡眠薬マニアで大酒呑みでもあるから、まあ4mgでないと寝付けないのかもしれない。
もしもこの処方のみを見せられたら、わたしの感想は以下のようなものである。
「この患者は現在、躁うつ病躁状態にあり、誇大妄想やら気分の高揚やらで周囲が対応に難渋しているのだろうなあ」
少なくとも、第一線の作家が小説を書きつつ服用している処方であるとは夢にも思わない。

ところが中島はほぼ十年間、同じ処方を服用していたらしい。定期的に受診をして、副作用について相談したりとか状態に応じて薬剤の調整してもらってはいなかったらしい。そうなると、これは漫然と出し続けられるべき処方ではないとコメントしたくなる。中島はかなりの薬剤耐性があっただろうが、それを差し引いても薬が重過ぎる。よくもこれを服用しながら創作活動が出来たものだと感心してしまう。
そして彼には強い副作用が出現していた。失禁やふらつき、目の調節障害などが見られ、ことに目については自力では原稿用紙の升目を埋められず、口述筆記をしていたという。しかも服薬をやめたら視力を取り戻せたと本人は語っている。こうなると、担当医の責任を問いたくなる。診察せずに薬をだらだら出し続け、実際に深刻な副作用が生じている。これはまずい。
処方のことでもう少し言及しておくと、副作用止め(結局はこれが効いていなかったわけであるが)を二種類いっぺんに使うのは、教科書的には間違いである。副作用止めの薬にも副作用は存在するし、本来的に二種併用は意味がない。だが実際には、二種類出さないとうまくいかないことは確かにある。何のポリシーもなく二種類出している場合と、試行錯誤の挙句に仕方なく出している場合とがあり得る。
そもそも処方内容はシンプルを以てベストとする。そうでないと、何がどのように効いているのか分からないし、副作用の原因も突き止めにくくなる。相互作用の問題もある。それに、薬とはそもそも毒物なのである。飲まないで済めばそれに越したことはないが、症状を抑えるためにやむなく服用しているのである。ならば、なるべく少量単剤で治療を行うのが原則となるのは当然だろう。
(ここまでにします。図書館で借りて読んでください。)