「(どうせ死んでしまうのになぜいま死んではいけないのか-中島義道) の解説 - 中村うさぎ」角川文庫

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「(どうせ死んでしまうのになぜいま死んではいけないのか-中島義道) の解説 - 中村うさぎ」角川文庫
 
二ヶ月ほど前に、顔見知りの男が自殺した。彼とは飲み屋でしょっちゅう遭遇し、共通の友人も大勢いて、お互いに顔を見知っていたのだが、私が彼を毛嫌いして口をきいたこともなかった。いや、一度くらいは話しかけられたこともあったかもしれないが、無視してしまったような気もする。私には「苦手な人種」がいっぱいいて、彼もまたそのひとりであったのだ。
彼が自殺したと聞いた時、彼と親しくしていた友人たちは一様に驚き、「あんなに楽しそうに生きてた人が......」と絶句した。だが、彼と特に親しくもなかった私にとっては、いかにもありそうな話に思えた。「あんなに楽しそうに生きてる」ふりをしていたからこそ、彼は生きていられなくなったのだ。私が彼を毛嫌いしていた理由は、じつはその点であり、つまり彼が「楽しそうに生きてるふり」をしていたからだった。私はいつも彼の楽しそうな騒ぎっぷりに何か不自然で嘘っぽい印象を受けていて、それが不愉快だったから、決して彼に近づかなかったのである。
傍[はた]から見れば、私の破廉恥な遊びっぷりもまた、「楽しそうに生きてるふり」と映るのかもしれない。だから彼に対する私の嫌悪は「同族嫌悪」だったとも言えようし、私もまた「楽しいふり」をして欺瞞[ぎまん]的に生きている人種のひとりなのであろう。私はそういう人々を嫌いながら、自分もまたそのように生きている卑怯者だ。そして、自分が卑怯者だということを認めたくないから、自殺した彼のような人種に「卑怯な私」を投影し、他罰的に憎むことによって己をごまかしているわけである。
このようなまわりくどい自己欺瞞を、我々はついつい、やらかしてしまう。というか、私の半生はほぼ、その「自己欺瞞」に費やされてきたと言っても過言ではない。私はいったい何をごまかそうとして、自他を欺きながら生きているのか。答えは簡単である。私は自分の人生が「生きるに値しない、くだらない人生である」ということを認めたくないのだ。それを認めないために、小理屈をこねたり楽しいふりをしたり、はたまた他人を裁いたり己を赦したり、あるいは生きがいを求めて仕事をしたり恋をしたり、と、ありとあらゆる「ナルシシズムの慰憮[いぶ]」に全力をあげているだけだ。
楽しいことがあれば「生きてて良かった」と思い、苦しいことがあれば「こうやって苦しむことにもなにか意味がある」と思いたがる。が、もしかすると「生きてて良かったほど楽しいこと」など何もなく、「苦しむことに意味のある人生」も送ってはいないのかもしれない。ただ、そんなふうに結論づけるとたちまち死にたくなってしまうので、私に死んで欲しくないと考える私の「自我」だの「ナルシシズム」だのが必死になって目くらましをかけ、私に「生きろ、生きろ」と囁いていただけなのかもしれない。

中島氏の文章を読んでいると、「おまえは根本的な真実から目を逸らし、意味のある人生を生きているつもりになっているだけの嘘つきだ」と告発されているような気分になる。そして、確かにそのとおりなので、激しく落ち込んでしまう。中島氏自身が「毒をまき散らす」と表現しているように、彼の作品は「生きていく気をな失くさせる」という意味では「猛毒」である。が、彼はあくまで真摯に「人生の真実」を見極めようとしているのであり、そんな彼の文章が「毒」だということは、とりもなおさず「人生の真実」自体が我々にとって「毒」なのだ、ということになるのだ。
それにしても、「私の人生は無意味である」という認識は、何故、これほどまでに我々に「生きる気」を失くさせるのであろうか?生きることは「意味」がなくては、いけないのだろうか?もしも「生きることに意味がない」という理由で私が死ぬとしたら、「すべての行為に意味がなくてはならない」というのが私の思想なのであろうから、当然、死ぬことにも「意味」がなくてはならなくなる。しかし、「生きることに意味がないから」という自殺に、はたして何の意味があるのか。自殺したからといって、私の人生に「意味」が付加されるわけではあるまい。意味もなく死ぬのであれば、意味もなく生きていることに何の抵抗があろうか。
私が生きていることには「意味」がない。でも死ぬことにも「意味」がないから、私は生きているのである。そう思えば、私の人生も少しは楽になり、意味のあるふりをして生きる必要もなくなるのかもしれない。おそらく、自殺したあの彼にしても、あんなに強迫的に楽しそうなふりをして生きる必要もなく、そのために追い詰められることもなかった......ような気がする(←まぁ、こればかりは、他人のことなのでわからないが)。
何年か前のこと、私はある若いホストから「俺が生まれてきたことに、何の意味があると思う?」と尋ねられ、「生まれてきたことに、意味なんかないよ。意味もなく生まれてしまったから、せめて自分の人生に意味をつけるために、人は生きていくんじゃないかな」と答えたことがある。今でも、基本的に、この考えは変わらない。少なくとも私は、自分の人生に自分なりの意味(そう、これは自分だけの問題だ。他人にとっては私の人生など何の意味もなくたって構わない)を付加しようとして生きてきた。
私の言う「意味」とは、「私は何のために生きているのか」という「理由」である。たとえ最終的な結論が「私の人生には意味がない」というものであっても、それが紛れもなく私の生きてきた実感であるなら、それはそれで生きてみなくちゃわからないことなねだから、「私の人生には意味がない」ということを発見するために私は生きてきた、ということになり、私の考え方では「無意味を知るたことの意味」がそこに発生するわけである。詭弁だろうか?まぁ、そう思われても構わない。というのも、これは本当の私の実感だからだ。五十年生きてきた結果、私は徐々に「私の人生に意味はない」という結論に近づきつつあって、べつに虚[むな]しくなることもなく、「なるほど、そうだったのか」と思いながら生きているからだ。
私の人生に、意味がなくても構わない。ここまで来たら、いつ死んでも構わない。死ぬ時に苦しかったり痛かったりするのが嫌なだけだ。寝ている間に苦痛もなく息を引き取れたら、こんなにありがたいことはない。だからといって、わざわざ自殺する必要も感じない。自殺なんかしたら、周りにああだこうだ言われて面倒臭いし、人に迷惑をかけるのも嫌だ。だから、死が訪れるまで、私は意味もなく生きている......それだけである。

中島氏の著書を読んで、私はこのようなことを考え、結果的に生きていくのが楽になった。中島氏の作品は、私にとって「毒」ではなく「薬」であった、ということになる。「意味が欲しい」と必死になって生きてきたけれど、「意味がない」と言われると、「なんだ、そうだよな」と、じつにあっけらかんとした清々しい気分になる。
ありがとうございました。中島先生。私はあなたに救われました。たとえ、それがあなたの本来の意図ではないにしろ、ね。