(巻三十五)墨堤に返す波間の都鳥(鳥飼しげを)

(巻三十五)墨堤に返す波間の都鳥(鳥飼しげを)

10月30日日曜日

朝家事。言いたい放題云われながらシーツを洗い、風呂の椅子と桶を洗う。風呂の椅子が汚れていて手間がかかった。

生協に行き、赤飯パック、マスク、納豆、牛乳、ヨーグルトを買う。パスコの6枚切り食パンが特売で出ていて148円だった。高いのか安いのか?今日もアイスモナカを噛りながら帰る。

帰宅し、布団干し。一息入れていると細君が俳壇を持ってきてくれて、

川下る小舟のごとく梨むけり(青木千禾子)

を書き留めた。「禾」という字が読めず、IMEパッドに頼った。チカコさまとお読みするのか?

昼飯を食って、今は災害時備蓄品倉庫代わりになっている息子の部屋に行きエアコンをつけて読書。エアコンをたまには動かさないと故障してしまうということで動かしてみた。26度の設定にしてみたが軽い音が流れてくる。設定温度が低いのですぐに運転休止になる。28度で連続運転だ。

3時まで運転して、それからシーツを取り込み、そして散歩。

まっすぐに都住3に入りクロちゃんの大歓迎を受ける。クロちゃんと戯れていると遥々サンちゃんが1号棟まで迎えにきた。今日はかなり空腹の様子で珍しく鳴き声をあげてスナックをねだる。1号棟の歩道でスナックをあげたが、クロちゃんの縄張りらしく落ち着いて食べないので藤棚まで行ってスナックをあげた。危険なフジちゃんも出てきたが、今日は引っ掻かれれないように距離を置いて少しあげた。

そこから修徳正門へ歩き、修徳の並びの屋敷の柿を一撮。柿色はよい色だ。

その先のファミマで珈琲を喫して帰途につく。

柿仰ぐ色鮮やかに喰えぬ奴(拙句)

4時半ころ細君が月を見ようと声をかけてきた。四日月だそうだ。まだ青さの残る南西の空に白く綺麗に映っていた。

「ムショ活」とかいうテレビを観ていた細君が飛んできて劇中で詠まれた俳句を教えてくれた。

桐一葉ひらりと…………であとは聞き取れず。神野紗希さんの作が劇中の挿入句で評判がよろしいとか。忍者服部くん以来の松坂さんの役作りも面白いのだろうが、テレビは見ない。

ライオンの子にはじめての雪降れり(神野紗希)

夜、9時過ぎから風呂の排水口の掃除した。発泡性の洗剤を長時間入れて置いた方がパイプの洗浄効果があるというのでこういうことになった。彼奴が後ろに立ってああだこうだと五月蝿いが、元気で結構なことだと言い聞かせて“うるさい‼”を呑み込んだ。

願い事-涅槃寂滅です。その後はず~と何もないはずだから多少の苦痛は仕方がないか。

人生は誤植か秋の数ページ(伊藤五六歩)

生まれてきたのがまさに誤植だ。

After your death, you will be what you were before your birth. - Author Schopenhauer

関係詞はwhereでなくwhatだ‼

これに望みを繋ごう。

血圧が高い。140-90だ。26日水曜日あたりから130くらいに上がり、今朝の初回は150の100なんてのが出た。心が原因だろう。

https://www.google.com/search?cs=0&q=%E4%B8%8D%E5%AE%89%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%97%87+%E8%A1%80%E5%9C%A7%E4%B8%8A%E6%98%87+%E7%9F%A5%E6%81%B5%E8%A2%8B&sa=X&ved=2ahUKEwi73-zvuob7AhW9R2wGHc4gCkUQ1QJ6BAg-EAE&biw=320&bih=422&dpr=1.5#ip=1

アドバイスを読んだら30くらい上がると書いてある。脈も速い。医者は来週だが、心の作用だから慌てて診てもらってしょうがあるまい。

「(どうせ死んでしまうのになぜいま死んではいけないのか-中島義道) の解説 - 中村うさぎ」角川文庫

二ヶ月ほど前に、顔見知りの男が自殺した。彼とは飲み屋でしょっちゅう遭遇し、共通の友人も大勢いて、お互いに顔を見知っていたのだが、私が彼を毛嫌いして口をきいたこともなかった。いや、一度くらいは話しかけられたこともあったかもしれないが、無視してしまったような気もする。私には「苦手な人種」がいっぱいいて、彼もまたそのひとりであったのだ。

彼が自殺したと聞いた時、彼と親しくしていた友人たちは一様に驚き、「あんなに楽しそうに生きてた人が......」と絶句した。だが、彼と特に親しくもなかった私にとっては、いかにもありそうな話に思えた。「あんなに楽しそうに生きてる」ふりをしていたからこそ、彼は生きていられなくなったのだ。私が彼を毛嫌いしていた理由は、じつはその点であり、つまり彼が「楽しそうに生きてるふり」をしていたからだった。私はいつも彼の楽しそうな騒ぎっぷりに何か不自然で嘘っぽい印象を受けていて、それが不愉快だったから、決して彼に近づかなかったのである。

傍[はた]から見れば、私の破廉恥な遊びっぷりもまた、「楽しそうに生きてるふり」と映るのかもしれない。だから彼に対する私の嫌悪は「同族嫌悪」だったとも言えようし、私もまた「楽しいふり」をして欺瞞[ぎまん]的に生きている人種のひとりなのであろう。私はそういう人々を嫌いながら、自分もまたそのように生きている卑怯者だ。そして、自分が卑怯者だということを認めたくないから、自殺した彼のような人種に「卑怯な私」を投影し、他罰的に憎むことによって己をごまかしているわけである。

このようなまわりくどい自己欺瞞を、我々はついつい、やらかしてしまう。というか、私の半生はほぼ、その「自己欺瞞」に費やされてきたと言っても過言ではない。私はいったい何をごまかそうとして、自他を欺きながら生きているのか。答えは簡単である。私は自分の人生が「生きるに値しない、くだらない人生である」ということを認めたくないのだ。それを認めないために、小理屈をこねたり楽しいふりをしたり、はたまた他人を裁いたり己を赦したり、あるいは生きがいを求めて仕事をしたり恋をしたり、と、ありとあらゆる「ナルシシズムの慰憮[いぶ]」に全力をあげているだけだ。

楽しいことがあれば「生きてて良かった」と思い、苦しいことがあれば「こうやって苦しむことにもなにか意味がある」と思いたがる。が、もしかすると「生きてて良かったほど楽しいこと」など何もなく、「苦しむことに意味のある人生」も送ってはいないのかもしれない。ただ、そんなふうに結論づけるとたちまち死にたくなってしまうので、私に死んで欲しくないと考える私の「自我」だの「ナルシシズム」だのが必死になって目くらましをかけ、私に「生きろ、生きろ」と囁いていただけなのかもしれない。

中島氏の文章を読んでいると、「おまえは根本的な真実から目を逸らし、意味のある人生を生きているつもりになっているだけの嘘つきだ」と告発されているような気分になる。そして、確かにそのとおりなので、激しく落ち込んでしまう。中島氏自身が「毒をまき散らす」と表現しているように、彼の作品は「生きていく気をな失くさせる」という意味では「猛毒」である。が、彼はあくまで真摯に「人生の真実」を見極めようとしているのであり、そんな彼の文章が「毒」だということは、とりもなおさず「人生の真実」自体が我々にとって「毒」なのだ、ということになるのだ。

それにしても、「私の人生は無意味である」という認識は、何故、これほどまでに我々に「生きる気」を失くさせるのであろうか?生きることは「意味」がなくては、いけないのだろうか?もしも「生きることに意味がない」という理由で私が死ぬとしたら、「すべての行為に意味がなくてはならない」というのが私の思想なのであろうから、当然、死ぬことにも「意味」がなくてはならなくなる。しかし、「生きることに意味がないから」という自殺に、はたして何の意味があるのか。自殺したからといって、私の人生に「意味」が付加されるわけではあるまい。意味もなく死ぬのであれば、意味もなく生きていることに何の抵抗があろうか。

私が生きていることには「意味」がない。でも死ぬことにも「意味」がないから、私は生きているのである。そう思えば、私の人生も少しは楽になり、意味のあるふりをして生きる必要もなくなるのかもしれない。おそらく、自殺したあの彼にしても、あんなに強迫的に楽しそうなふりをして生きる必要もなく、そのために追い詰められることもなかった......ような気がする(←まぁ、こればかりは、他人のことなのでわからないが)。

何年か前のこと、私はある若いホストから「俺が生まれてきたことに、何の意味があると思う?」と尋ねられ、「生まれてきたことに、意味なんかないよ。意味もなく生まれてしまったから、せめて自分の人生に意味をつけるために、人は生きていくんじゃないかな」と答えたことがある。今でも、基本的に、この考えは変わらない。少なくとも私は、自分の人生に自分なりの意味(そう、これは自分だけの問題だ。他人にとっては私の人生など何の意味もなくたって構わない)を付加しようとして生きてきた。

私の言う「意味」とは、「私は何のために生きているのか」という「理由」である。たとえ最終的な結論が「私の人生には意味がない」というものであっても、それが紛れもなく私の生きてきた実感であるなら、それはそれで生きてみなくちゃわからないことなねだから、「私の人生には意味がない」ということを発見するために私は生きてきた、ということになり、私の考え方では「無意味を知るたことの意味」がそこに発生するわけである。詭弁だろうか?まぁ、そう思われても構わない。というのも、これは本当の私の実感だからだ。五十年生きてきた結果、私は徐々に「私の人生に意味はない」という結論に近づきつつあって、べつに虚[むな]しくなることもなく、「なるほど、そうだったのか」と思いながら生きているからだ。

私の人生に、意味がなくても構わない。ここまで来たら、いつ死んでも構わない。死ぬ時に苦しかったり痛かったりするのが嫌なだけだ。寝ている間に苦痛もなく息を引き取れたら、こんなにありがたいことはない。だからといって、わざわざ自殺する必要も感じない。自殺なんかしたら、周りにああだこうだ言われて面倒臭いし、人に迷惑をかけるのも嫌だ。だから、死が訪れるまで、私は意味もなく生きている......それだけである。

中島氏の著書を読んで、私はこのようなことを考え、結果的に生きていくのが楽になった。中島氏の作品は、私にとって「毒」ではなく「薬」であった、ということになる。「意味が欲しい」と必死になって生きてきたけれど、「意味がない」と言われると、「なんだ、そうだよな」と、じつにあっけらかんとした清々しい気分になる。

ありがとうございました。中島先生。私はあなたに救われました。たとえ、それがあなたの本来の意図ではないにしろ、ね。