(巻三十六)すぐそこと傘を断る小夜時雨(西山睦)

(巻三十六)すぐそこと傘を断る小夜時雨(西山睦)

2月13日月曜日

細君がお越しにきて終日雨と告げる。

日の明かりが弱いので終日照明を点ける。朝家事は拭き掃除だけ。その後、結露拭きを何度かいたす。

昼飯喰って、一息入れて、英聴。

先週は不作だったのでアーカイブから

BBC Word of Mouth Romance Fraud

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000v91g

を拾ってみた。今週はこれを聴いて行こう。

夕飯におでんが出た‼

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

読み終わった、

「涸れることのない苦悩の泉 - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

ショーペンハウアーの高説が紹介されていた。ショーペンハウアーの警句を書き留めてあるが、

After your death, you will be what you were before your birth. - Author Schopenhauer

が好きです。そうであってほしいと願っています。

結局は諦念の話になるようで、

「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

を読み返してみた。

人参は丈をあきらめ色に出づ(藤田湘子)

「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

このキュープラー・ロスの五段階に分けた考え方を「ロスの五段階説」とアメリカで呼んでいるが、多くの支持者がある。現に宗教学者だった岸本英夫さんが、皮膚ガン(メラノーム)に冒されて亡くなった記録『死を見つめる心』(講談社)のなかでも苦悩する心のゆれが微妙にえがかれているが、実際にこの五段階を経過して安心立命の境地に達している。

ただ、少し「ないものねだり」のようなことをいうといわれるかもしれないが、私たちは“死に病”に冒されてから、はじめて「死」を考える。そして五段階を経由して、最後に“あきらめ”の心境に近いものになって死んでいく。これを、もう少し、早い時期から考えておくということができないものだろうか。「人間には欲望があるから、そんなことはできない」と否定する人も多いだろう。たしかに、そのようにも思える。しかし「人間はいつかは死ぬ」というのも数少ない真実のひとつである。だとすれば「やがて死ぬのだ」という認識を持つことは、必要なのではないだろうか。そこを出発点として人生を生きていくのと、そうでない生き方とはまったくちがうのではないだろうか。人生はマラソンに似ているといわれる。四二・一九五キロを走り切って、はじめて優勝者が決まる壮絶なドラマがマラソンである。ただ走ればいいというのでは、タイムはおろか、完走もできない。配分も必要だ。五キロを何分で走るかを綿密に計算し、そのとおり、持続して走らねばならない。

ただ、人生とマラソンの違いは、マラソンはゴールの向こうに栄光があるが、人生のゴールの向こうには「死」しかない。ゴールに入ったとたんに“一巻の終わり”になり、その人の社会的評価(生きたという事実)が決まるのである。しかし、どちらも苦難の道であることはよく似ている。人生の中での喜怒哀楽は、マラソンでいえば、途中計時やラップ・タイムのようなものであろう。私たちにとって、何よりも大切で必要なことは「人間は必ず死ぬ」ということではないだろうか。こういうと、いかにも敗北主義者のように思う人もあるかもしれないが、これは当然のことである。人間は必ず死ぬという認識を持つことと精一杯生きるということとは、なんの矛盾もない。むしろいつかは死ぬということが、人生を精一杯生きることにつながるのではないだろうか。人間に死というものがなければ、おそらく芸術のようなものは誕生しないだろう

生まれた瞬間からそういう考え方を持てといってもそれは無理だろう。しかし、青年期から、つとめて死生観を持とうと努力している人は立派な人である。主観的な話で恐縮だが、私が五十数年のささやかな人生を歩いてきて、立派な人だと感心する人物は、必ず、確固とした死生観や人生観を持った人たちであった。いくら高名な学者でも、ずるがしこく、要領よく立ち回るような人は、あとで聞くと死にぎわのあわれな人が多い。

この死生観は人生経験によってもちがうようだ。若いときに戦争にかり出されて、いわゆる“死線を越える”ような死と直面した体験を持ち、多くの友人を失った人には、きっちりとした死生観を持った人が多い。よく会話をしついると「終戦後の人生は私にとって付けたしのようなものです」という人がいるが、こういう人に限って、付けたしどころか、立派な人生を歩いている人が多い。若いときに結核で死にかけて助かった人のなかにも、立派な死生観を持っている人が多い。これらの人々は「一度は生をあきらめた人」といえるのではないかと思う。こういう人たちと話をすると、私などは恥じ入るばかりである。

「あきらめる」というと、なにか後ろ向きで、悪いことのように思うひとが多いが、私はこれは誤りではないかと思う。あきらめるというのは、明らかに見る、つまり、よく見るというのが語源だそうで、よく見てみると「そうか」ということになるわけである。人生においてはあきらめることが必要になる場合も多い。出処進退などというものだと思う。人生は何でも前向きでありさえすればいいと思っている人も多いかもしれないが、私はそうではないように思う。試行錯誤やたゆまぬ努力をすることは当然人生では評価されるべきだと思うが、ときと場合によっては、あきらめることも人生ではないかと思う。

少し医学的なことになって恐縮だが、人間と動物の最大のちがいは、人間の脳には「前頭葉」と呼ばれる部分が極度に発達しているのに、ほかの動物では、ほとんど発達していないということである。前頭葉は、さきにもちょっと触れたように、ものを考えたり、つくりだしたりする“創造の座”であって、コンピューターでは遠く及ばない働きである。ところで、この前頭葉は「前向き」の働きだけではなく、実は「抑止力」も大きな働きのひとつなのである。この前向きと抑止力のバランスが人間をつくっているといっても過言ではない。抑止力のなかには「あきらめ」も入っているのである。

人間は年をとると、気が長くなり、受け入れる気持の方が強くなってくる。これは抑止力がより強く働くようになるためだが、あるいは、死を許容するような気持に自然にさせているのかもしれない。脳の活力が低下してぼけてくるためだと思う人もいるかもしれないが、そういう病的なものではなく、一種のバランス感覚のようなものである。大会議の座長のような人は、いくら頭が切れても若い人ではうまくいかないのはそのためで、いつまでたっても自分の意見を主張することしかできない人が、人格円満とみられないのは、そのためである。抑止力を重視すべきである。

この「あきらめる」というのは、少し例が適切ではないかもしれないが、「夫婦」のようなものにも当てはまるように思われる。夫婦はよくできたもので、若いときにけんかばりしていた夫婦も、ともかく定年を迎えるころになると、わりと仲のいい夫婦になることが多い。(最近は定年退職時の夫の退職金をねらって、妻のほうから離婚を迫るケースもあるらしいが、これは絶望的である)。

これは、ひとことでいえば、夫も妻もお互いに「あきらめる」ためだろうと私は思う。夫のほうも、若いときにはバーでもてたりすると有頂天になったりするが、四十五歳ごろになると、自分がもてているように見えるのは、バックにある会社だったり、財布の中の聖徳太子がもてていることに気がつくものである。これに気づかないようでは、とても管理職などはつとまらない。一方、妻の方も、結婚してからたえず「この人と結婚してよかったのかしら。あのとき、別の見合いをした人のほうがよかったのではなかったかしら」とか思う。しかし、四十歳をすぎると、ここで別れても、何もやれることはないと思う。せいぜい、料理屋の“お運びさん”ぐらいにしかなれない。お運びさんというのは、料理屋の台所から座敷のふすまの前まで料理を運ぶのが仕事で、座敷の中に入るにしては、シワが多すぎるというわけである。それなら、いまの主人といっしょにいたら、厚生年金もでるし、定期預金もいくらかはある。このほうがいいわということになる。

まさに、“明らかに見た”その結果なのである。ここには抑止力も働いているわけである。だから六十歳をすぎて“火宅の人”などというのは、そうざらにはいないもので、きわめて例外的なケースなのである。もちろん、こういった不真面目な話だけではなく“子はカスガイ”といったような場面もあるだろうけれども、意のおもむくままには、行動しない。“不惑の年”とはよくいったものである。

夫婦ももっと年をとって六十五歳ぐらいになると、一日じゅう、二人で話をしている。よくあんなにも話をする内容があるなと思うが、そこはよくできている。老夫婦の場合、夫も妻も脳が適当に老化して、記憶力が低下し、同じ話を新しい話とお互いに思って何度もしているわけである。息子や息子の嫁がきいたら「もうこの話十回目だ」ということになる。夫婦というものはお宮の唐獅子のようなものである。向かい合って四十五年とか五十年とかいうのが多い。問題は向かい合っていることなのではなく、その間を誰が通り過ぎたのかということにあるのだろう。

少し不謹慎な話かもしれないが、あきらめるということには、元来こういう面もあるということをいいたかったのである。ついでにもうひとつ紹介しておくと、あらゆる統計をみても、独身者は妻帯者より寿命が短い。それだけではない。一定年齢以上生きていたい人は、必ず、現在の奥さんを大切にすることである。たとえ、その奥さんが二度目であっても、三度目であっても。それというのは、男性は六十歳をすぎて奥さんを亡くすと、その七〇パーセントぐらいの人は三年以内に死ぬことになっている。ただし、奥さんのほうは六十歳すぎて夫を失っても、寿命に関係なく延々と生きるということになっている。

これは、いかに男性というのが生物的に弱いかという見方もできるだろうが、年をとった男性が一人で生きていくのはたいへんだということでもある。“粗大ゴミ”だとまではいわないにしても、男性が妻を亡くして、なお生きていくというのは、心労が多い。夫婦はやはり、ワンセットでいるほうが、統計的に長く生きられるだけでなく、そのほうが、社会的にもリーズナブルなようである。手前勝手ないい方をすれば、妻を看取るのではなく、夫が妻に看取られるほうがいいようである。