「笑う門には福きたる - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

 

「笑う門には福きたる - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

幸福な人は、笑みの絶えない人である。幸福だから、笑みを湛えているのか、いつも笑顔でいると幸福になるのか、これはニワトリとタマゴのような関係で、どちらともきめかねるが、幸福と笑いとが大いに関係があるのは、多くの人の経験的事実である。
日本には「笑う門には福きたる」という諺があるが、古代ギリシアの哲学者もこれに同感の意を示している。「原子論」のデモクリストの次のような言葉が伝えられている。

快活さ(晴れやかな心境)こそ、人生の終局目的である。(『ギリシア哲学者列伝』)

ショーペンハウアーは、朗[ほが]らかさこそ幸福のしるしだという。

朗らかさがやってきたときには、どんな場合でも、門を開くがよい。朗らかさがいま来ては困るという時はない。朗らかさはそれがそのまま利益になる。直接、現在において幸福を与えるものは、朗らかさ以外にはないのだから、朗らかさはいわば幸福の正真正銘の実体、幸福の正貨である。このように人間にとって、朗らかさは無上至高の財宝である。このことから見て、われわれはこの財宝の獲得増進を他のどんな努力よりも重く見るべきである。(『幸福について-人生論-』)

若いときは暗い厭世家[えんせいか]だったショーペンハウアーも、この文章を書いた晩年には、ちょっと怒りっぽいが、明るい老人になっていたようだ。朗らかさを意味するドイツ語Heiterkeitは「明るいheiter」から来ているが、漢字の「朗」も、その字のとおり、「良い月」、つまり満月であって、やっぱり、明るいことが原義となっている。
心の明るさという、「幸福の正貨」はどのようにすれば手にすることができようか。いつも機嫌のよい心理状態に自分を置くことにまさる方法はないが、自分の心理を思いどおりに支配するのは容易ではない。何か面白いことがあれば、自然に笑いが込みあげ、何か良いことがあれば、自ずから上機嫌になる。しかし、面白いことも、良いこともないときは、どうすればよかろうか。その答えは、ただひとつ、いつも上機嫌であるように努力することである。
悲しいから泣くというのは自然の生理現象である。それと同様、泣くから悲しくなるというのも通常の心理現象である。それと同じように、幸福であれば、自ずから上機嫌になるように、上機嫌を維持することができれば、それだけで心は幸福感で満たされるものである。道徳とは、われわれがいかにして幸福にふさわしくなるべきかという教えであると、カントは言ったが、これは、幸福にふさわしいように、いつも上機嫌であれということであり、そのようにセルフ・コントロールせよということなのである。道徳とは、何をすべきか、何をしてはいけないかという教えだと言ったが、道徳とはひと言  でいえば、セルフ・コントロールにほかならない。
自己を律するにあたって必要なのは、「律法」である。感覚や感情、生理など、人間の心身に由来する判断や「傾向性」ではなく、理性にもとづく規則は、ふつう法律と呼ばれるが、ここでは自己を律する法という意味で「律法」と呼ぶことにする。

 

幸福をめざすためのセルフ・コントロールの「律法」の第一条は、「不機嫌は罪悪である」という条文である。近代において、この「律法」を最初に宣言したのは、ゲーテである。

自分自身にも、周囲の人にも害になる不機嫌は、
れっきとした罪悪である。
(『若きヴェルテルの悩み』)

ヴェルテルの口をとおして語られたこの言葉は、ゲーテ自身の自省の言葉でもある。小説に描かれたヴェルテルは、気分の不安定な、何かといえばすぐ不機嫌になる人物であるが、若いころのゲーテも同様であったことが自伝『詩と真実』に記されている。ゲーテは七十五歳のとき、これまでの人生において本当に幸福だったのはわずか四週間にも満たないと言ったが、上機嫌もその程度だったのではなかろうか。人生の大半は、不機嫌な時間である。状況しだいでたちまち不機嫌に傾くというのが、人間の通常の自然のすがたである。そのような人間の「自然」に対抗し、これを抑制するのが、「律法」であり、道徳なのである。
人間の多くの「自然」は許されるが、他者に害悪を与えるものは罪悪とされる。誰もいないところで不機嫌になるのは、罪悪とは言えない。不機嫌な顔を人に見せ、悪い気分にさせることが、罪悪なのである。すべての家庭に推奨したい「家訓」がある。「人に不機嫌な顔を見せてはいけない」という「家訓」である。
不機嫌にかんするゲーテの「律法」を継承し、詳細にわたり分析したのが、フランスの哲学者、アラン(一八六八ー一九五一)である。彼は、機嫌・不機嫌は道徳の問題であることを、つまり、人間の自然の「傾向性」をコントロールする問題であることを認めている。

もしたまたま道徳論をかかねばならないようなことがあれば、私は、上機嫌を義務の第一位におくだろう。(『幸福論』)

気分に任せておいてはできないことを、本人の意志に逆らってでも、強制的に実行させること、それが義務である。容易に実行できないからこそ、義務という特別の規定が必要になる。セルフ・コントロールはつねに義務の履行というかたちで実践される。「上機嫌は第一位の義務である」は、セルフ・コントロールの「律法」の第二条にふさわしい条文である。
アランがカントなどよりも実践に役立つ哲学者であるゆえんは、この「第一位の義務」の履行方法を具体的に指示しているところにもあらわれている。自分の不機嫌を無視せよ、というのがその方法である。

私は、幸福の秘訣のひとつは自分自身の不機嫌に無関心でいることだと思う。無視していれば、不機嫌などというものは、犬が犬小屋にもどって行くように、動物的な生命力にもどって薄らぐものだ。私の意見では、これこそ現実的な道徳のもっとも重要な主題のひとつである。自分の過失、自分の悔恨、反省によるあらゆるみじめさから、身をひきはすことだ。「この怒りは、消えたいときにはおのずと消えてゆくだろう」ということである。泣きわめく声を聞いてもらえない子供のように、怒りもすぐどこかに消えていってしまうだろう。

不機嫌は伝染しやすいものである。自分が不機嫌になると、まわりの人も不機嫌になりがちで、また、不機嫌な人に出会うと、こちらも不機嫌になりかねない。そこで、「律法」の第三条として、「自他の不機嫌を無視せよ」という条文を加えてはいかがだろうか。
「法三条」というが、こうした幸福のためのセルフ・コントロールの「律法」ができあがった。
第一条 不機嫌は罪悪である。
第二条 上機嫌は第一位の義務である。
第三条 自他の不機嫌は無視せよ。
実際に試みてみればわかることであるが、これらのことを肝に銘じておくだけで、実は、幸福になることができるのである。上機嫌であることこそ、幸福の必要十分条件であると言うことができる。幸福になるのは実に簡単なことである。本人がそう思えば、その人は幸福である。他人の思いを誰も否定することはできない。