「涸れることのない苦悩の泉 - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

 

「涸れることのない苦悩の泉 - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

人間には幸福は不可能だとカントは言ったが、われわれはまったく幸福に無縁だというわけではない。心からしみじみと生きていることの、また、愛する伴侶とともに楽しい時間をすごすことの幸福を実感することがある。そもそも、人間にとって幸福がまったく不可能ならば、われわれは幸福そのものを問題にすることはないであろう。およそ何ごとにつけ、経験の可能性があることを、われわれは思考の対象とする。
カントが言っているのは、永続する幸福は得がたいということであって、「束の間の幸福」であれば可能であることを、われわれは経験から知っている。われわれがふつう幸福と呼んでいるものは、永続する幸福ではなく、むしろ、この「束の間の幸福」である。そして、この「束の間の幸福」を「持続可能な幸福」へと導くことこそ、実践的ないし実際的な幸福論である。
「束の間の幸福」とは、どれほどの長さの幸福なのであろうか。「束」は、上代の長さの単位で、指四本の幅の長さである。これを時間に換算すると、どれくらいの持続になるのであろうか。人間は生涯に幸福な時間をどれほど経験できるのだろうか。英語で幸福を意味するhappinessは、「たまたまものごとが起こる」という意味のhappenと同じ語源である。また、ドイツ語で幸福を意味するGluckは、贈りものが語源である。僥倖が頻繁に起こるはずはなく、贈りものもまれであろう。あまり長つづきする幸福は期待できそうにない。
この点について、ゲーテの貴重な報告がある。

 

私はいつもみんなからことのほか幸福に恵まれた人間だと誉めそやされてきた。私だって愚痴などこぼしたくないし、自分の人生行路にけちをつけるつもりはさらさらない。しかし、実際それは苦労と仕事以外の何ものでもなかった。七十五年の生涯で、本当に幸福なときは四週間もなかったといっていい。たえず石を、繰り返し押し上げようとしながら、永遠に石を転がしていたようなものだ。(『ゲーテとの対話』)

生涯にせいぜい四週間の幸福。指一本を一週間とすれば、まさに「束の間の幸福」である。四週間ははたして長いのか、短いのかはともかく、「本当に幸福なとき」をゲーテが経験したことだけは紛れもない事実である。これはもちろんゲーテにかぎったことではなかろう。たとえ束の間であれ、人間には幸福が可能なのである。しかし、それが永続は言うまでもなく、それほど持続しないのはなぜか。ゼウスの怒りを買って、地獄に落とされたシシュフォスが、坂道を岩を転がして押し上げる仕事を課せられ、いまひと息のところで岩は転がり落ち、これを永劫に繰り返すというギリシャ神話の物語に似たことを、この世で人間が体験しなければならないのはなぜか。
フランスの作家、アルベール・カミュは、それが人間の実存(生活、人生)にほかならないと言っているが、ドイツの哲学者で、ゲーテとも親交のあったショーペンハウアー(一七八八-一八六〇)は、幸福が持続しないのは、人間の本性のゆえであると述べる。どのような本性なのか。人間の心のなかには、涸れることない苦悩の泉があるという本性である。
ショーペンハウアーの哲学のキイワードは、すべての人間に宿る「生きんとする意志」である。その意志の本質は不断の努力であることを論証したうえで、ショーペンハウアーは、苦悩と人間との関係を解き明かす。

努力というものはすべて不足から生じるものであり、自分の置かれている状態にたいする不満足から生じるものなのであって、したがって、努力が満足されないかぎり、すべての努力は苦悩である。しかるに、満足はながつづきするものではない。それどころか満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりで努力はつねに苦悩である。(『意志の表象としての世界』)

努力と満足の関係は、シシュフォスが押し上げる岩と坂道との関係に似ている。坂の頂上をめざす努力は成就寸前のところで水の泡となり、ふたたび岩を押し上げるという苦悩が繰り返される。坂の下の不満足・不足・欠乏は、坂の上の満足・幸福をめざすが、いかに努力しても、そこへ到達することができない。努力そのものが苦悩を産み出しているからである。努力することが人間の本質であるとしたら(努力しない人間はいない)、人間はけっして苦悩から逃れることができないということになる。幸福を得るための努力も、また、苦悩から逃れようとする努力も、結果として、新たな苦悩を生むにすぎない。人間のなかに「苦悩の泉」があるからである。

 

たいていの場合、にがい良薬にもたとうべき認識にたいしては眼をふさいでしまうのがわれわれ人間であって、苦悩が人生の本質をなし、苦悩はしたがって外から自分のほうへ流れ込んでくるものではなく、誰でも自分の心のなかに涸れることなき苦悩の泉をかかえて生きているのだという認識にたいして、われわれは眼をふさいでしまうのである。それどころか、けっして自分を見放すことのないこの苦悩にたいし、われわれはいちいち外的な原因を見つけ出し、いわば苦悩の言い逃れを見つけ出そうとたえずしている。(同)

要するに、人間は悩むようにできているのである。「苦悩が人生の本質をなす」とは、そういう意味である。その悩みの合間に、束の間の幸福の花が咲くが、たちまち花はしおれてしまう。その繰り返しが、人間の生涯である。幸福は消極的なものであり、苦悩こそが積極的なものであって、苦悩をなくそうとする人間の努力がいかにむなしいかを、ショーペンハウアーは強調する。

苦悩を追い払おうとして人はたえず骨折るけれども、せいぜいのところ苦悩の姿を変えることくらいしかできない。苦悩の姿は、もともとは、欠乏、困窮、生活維持のための心労である。もしうまくいって、といってもそれはたいへん難しいことだが、この姿のうちどれかひとつ、ある姿の苦悩を追い払うことができたとしても、苦悩はたちまちまた幾千という別の姿になってあらわれることであろうし、年齢や境遇に応じて千変万化する-すなわち、性衝動、情熱的な愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気などなどのあらゆる姿であらわれることになるであろう。あげくのはて、苦悩の入り込める姿というものがほかにもうないということになれば、苦悩さ、今度は倦怠や退屈という、しめっぽい灰色の衣装をまとってあらわれることになる。(同)

こうなると人生の「主役」は幸福ではなく、苦悩である。苦悩という表舞台の合間に幸福の寸劇が演じられるにすぎない。あくまでも人生の「主題」は苦悩であり、その主題の変奏のなかで人生は展開され、けっして人間は苦悩から逃れることができない。
そこで、こう考えてみたらどうだろうか。苦悩は、いうなれば船のバラストのようなものであると。船を安定させるために、船には底荷[バラスト]が積まれている。その重みによって、船は喫水線を維持して、転覆の危険を回避できる。人生のバラストがあまりに重すぎると、人間を沈没させる危険もあるが、バラストが不足すると、人間は軽薄になって、転覆の危険にさらされる。人生には苦悩という底荷が必要であるという認識ないし達観こそが、「静かな哀調をおびた、高尚な人間」をつくるとショーペンハウアーは言う。
そのような認識ないし達観は、あきらめ、諦念に通ずるが、諦[あきら]めるとは、ものごとを「明らめる」ことであって、ものごとの真相を明らかにして、それをそのまま受け止めるということである。そこには疑念や不安はなく、諦念から安らかな心が生み出される。その安らかな心こそ、幸福の境地に等しいのである。そういう意味で、ショーペンハウアーの苦悩の哲学は、幸福の哲学でもある。