「大鉢 むさし野・北大路魯山人 - 白洲正子」日本の名随筆別巻9から

 

「大鉢 むさし野・北大路魯山人 - 白洲正子」日本の名随筆別巻9から

魯山人については、度々書いたことがあるが、何度でもくり返していえるのは、近代において、あれ程上手で、趣味のいい作家は少ない。ということだ。陶器はもとより、絵画、篆刻、書、漆器に至るまで、思う存分腕をふるった。
生前は、とかく欠点の多い人物で、世間の評判もけっしていいとはいえなかった。坊主憎けりゃ、のたとえどおり、そのために作品を認めなかった人たちも多い。あれ程陶器がわかる柳宗悦氏ですら、魯山人のものには臭気がある、といって嫌われたが、おおむねそれは人間の方から来る臭気であった。
よく骨太な手を前につき出して、「そもそも芸術とは……」と、大演説をぶった。無邪気といえば無邪気だが、黙って物を作っていればいいのに、と何度思ったかわからない。欲ばりではったり屋で、傲慢無礼で、あげれば切りがない程だが、自ら放つ臭気に、一番へきえきしたのは当人であったかも知れない。思うに彼は、見たとことは正反対な小心者で、自信がなく、自分が思っている程世間が認めてくれないことに、常に不満を感じ、苛立っていたに違いない。それがあのような形に爆発したので、魯山人ほどの作家なら、「今に見ておれ」と、死後を信じても一向さしつかえなかった筈である。
「死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとして来るんだろう」
これは小林秀雄さんの『無常といふこと』の中にある言葉だが、魯山人についてもいえることである。生ま身の人間から解放された作品は、彼の死とともに美しさを増し、自由に世間を闊歩しはじめた。さぞせいせいしたことだろう。作家にとって、作品が一人歩きする程名誉なことはなく、もはや「芸術、芸術」と人に押しつける要もなくなって、彼は安らかに眠ったに違いない。そういう意味では、やはりすぐれた芸術家ね一人で、幸福な人間であったといえる。
たとえば、「むさし野」と名づける大鉢は、平安朝以来、しきりに歌によまれ、絵に描かれたむさし野の風景で、秋草の中から銀泥の月が昇っている。月の半分は鉢の内側にかくれ、淡い色彩は夕霧のようだし、たっぷりしたすがたも満月を思わせる。染付の部分は、線彫りにし、すすきを白く浮き出させ、それが終わる境目の所から、鉄砂を用いて穂を描いていろのも、心にくい趣向である。何より見事なのは、使い古されたむさし野という主題を、自分の物として表現していることで、近頃は「伝統を生かす」ということが簡単にいわれるけれど、このように生かした芸術家は至って少ないのである。
私がはじめて知った頃の魯山人は、陶土をこねる職人や、ろくろ師を使い、だいたいの形が出来上るまで自分では手を下さなかった。だからどれ程技術があったのか、私にはわからない。が、ろくろで仕上げた生地に、魯山人がちょっと手をふれるだけで、見違えるように美しくなり、絵つけをするとまるで別物になった。それは手品を見るように面白く、鮮かだった。下地を作らないために、魯山人はほんとうの陶芸家ではない、という人もいたが、私はそう思わない。工芸というものは、分業でいいと思うし、全体にわたってよく物が見え、総合的にまとめるプロデューサーを必要とするからだ。利休も、光悦も、そういう人たちであった。彼らに魯山人を比すわけではないが、現代にもっとも欠けているのは、そういう人物で、その意味でも彼が果たした功績は大きいと思う。
窯をあける時には、必ず知らせてくれ、ふだんはけちなじいさんが、まだ熱気の残る焼きものをたくさんくれた。私はそういうものをふだん使いにしており、魯山人の陶器は、ただで貰うものときめていたが、死んでしまってあわてて買いだした。この頃は日に日に高くなるので、そう自由には買えない。ただでせしめるという根性が、私をめくらにしていたのだ。
それでも生きている作家のよりはまだはるかに安い。新しい陶器の値段は、新画と同じことで、新作だけが持てはやされる。それは商売人や画商にあやつられた、いわば架空の値段であり、実質をともなってはいない。これは売ってみれば、すぐにわかることで、よくても半値くらいにしか売れないだろう。そこへ行くと、魯山人の作品は、実に「はっきりとしっかりしている」。値段もそうだし、ひと目で魯山人とわかる。骨董は、いってみれば古典文学と同じもので、美しい物だけが、長い間の風雪に耐えて生き残るのである。