「文壇いろはにほへと武芸帳 - 嵐山光三郎」ぼくの交友録的読書術 から

 

「文壇いろはにほへと武芸帳 - 嵐山光三郎」ぼくの交友録的読書術 から

編集者という商売には文人系体力が必要で、企画する本能と持続する意志、あとは茶目
っ気と義理人情があればどうにかやっていける。
大村彦次郎氏は、なかば伝説と化した編集長であって、三十年前に山口瞳邸の正月宴会でお目にかかってからは、勝手に「大村組子分」を詐称している。しかし、大村組子分を詐称する編集者出身の文筆業者は、私が知っているだけでも坂崎重盛ほか七名いる。
大村親分は「小説現代」「群像」編集長を経て講談社文芸局長、取締役を務めた。その間、野坂昭如井上ひさし村上龍村上春樹など多くの作家の文壇デビューに尽力し、また池波正太郎仕掛人梅安』や笹沢佐保木枯し紋次郎』などの評判作を企画し、ヒットさせた。『文壇栄華物語』(新田次郎文学賞)『時代小説盛衰史』(長谷川伸賞)などの文壇物語を発表している。
大村氏が書く『文壇うたかた物語』をはじめとする文壇物語シリーズがめちゃくちゃに面白いのは、文芸編集の修羅場をくぐりぬけてきた職人が持つ現場の臨場感に満ちているからだ。大村氏が出版記念会として開く宴会には、出版各社出身の文筆業者が集まる。編集者出身の先輩がカクシャクとしているのは、まぶしくて、胸がグラグラする。嵐山オフィスのみち子姐さんも大村彦次郎氏の本を担当した編集者であった。
『文壇さきがけ物語』(筑摩書房)は、「新潮」編集部にいた楢崎勤[ならさきつとむ]の目から眺めた大正昭和文壇史であるが、ここに登場する編集者と作家は千人を超え、巻末に記された作家・編集者略歴は四〇名である。雑誌は「新潮」「中央公論」「改造」「講談倶楽部」「婦人之友」「キング」「文藝春秋」「不同調」「文藝」「人間」などなど。
すべて「お話」(挿話)で書かれているから面白くて面白くて、ドキドキします。作家の原稿料、女性スキャンダル・ゴシップ、喧嘩、罵倒評論家、勝本清一郎(文芸評論家)の離婚祝賀会、エミール・ゾラの「ナナ」の翻訳が大当たりして建築資金が捻出されたという、関東大震災でも倒れなかった「新潮」の「ナナ御殿」ビル、大宅壮一のワイダンと花札開帳、と、出るわ出るわ、見てきたような文壇活劇秘話がもりだくさんで、読みはじめるととまらない。
楢崎勤の上司中村武羅夫(中央公論の滝田樗陰[たきだちよいん]と力を競う名編集者)は、いが栗頭で鉄縁の眼鏡をかけた大柄の男だった。通称プラ公と呼ばれ、「新潮」の編集責任者として三十年以上君臨した。当時の編集者には給料は一銭もなく、作家訪問の原稿料が収入のすべてだった。
作家の談話料(インタビュー謝礼)は支払われなかった。漱石が面会を断ると、中村は「ぼくはこれで仕事をしているのです。談話を断られると、ぼくは食っていけないのです」と泣きついた。中村は北海道岩見沢の開拓農民の子として生まれ、家が貧しかったので上級学校へ進めず、雑誌「文章世界」への投稿少年として出発した。
中村より十五歳下の楢崎は同志社大中退だった。通称プラ公は漱石のほか島村抱月田山花袋国木田独歩、島村藤村、正宗白鳥ら、当時の大家を訪ね、その印象記を書いた。独歩が没したときは「新潮」全誌を独歩号として編集して文壇における「新潮」の権威を確立した。
編集者という黒子に徹しようとする人と、いずれ作家になる人がいる。編集者でありながら作家を兼ねている人は、編集者をやめて作家一本でいけばいいが、原稿収入だけで生活するのは至難の業である。
上林暁は東大を卒業後、「改造」編集者となり、三十一歳のとき小説『薔薇盗人[ばらとうにん]』を書いて独立したが、生活は安定せず、妻が没して栄養失調となった。脳溢血の発作で死地をさまよった幻想小説『白い屋形船』は口述筆記だった。白い屋形船とは死者を迎えにくる舟である。
永井龍男は十九歳のとき短編『黒い御飯』を携えて菊池寛を訪ね、認められて、「文藝春秋」に載った。のち「文藝春秋」編集長となって満州文藝春秋社専務として赴任したが、敗戦で帰国し、独立して作家となって、鎌倉に住んだ。
永井が「文藝春秋」にいたとき、同い年の丹羽文雄が訪ねてきた。丹羽の才能を見てとった永井は、すぐ原稿を依頼した。丹羽は後年になって、このとき永井の目にとまらなかったら、自分は一介の田舎坊主として生涯を終えたかもしれない、と洩らした。
和田芳恵が新潮社へ入ったのは、楢崎の入社より遅れて六年後の昭和六年だった。社長の面接だけで採用され、給料は六十円。ただし、他社の雑誌に原稿を書いてはならぬ、と申し渡されたことが不服だった。
和田は苦学生時代に所帯を持ち、二十五歳で中央大学を出て、新潮社に入社したときは二児の父親であった。妻は結核を患って、三十三歳で他界した。作家として自立するため辞表を出すと、社長の佐藤義亮[ぎりよう]が「わしは十年の間、手塩にかけてきみを育ててきたつもりだ。いい仕事をしてくれよ」と励まし、二年間食べていける退職金を出すよう、経理に指示した。
私は二十二歳で新米編集者のとき、和田氏に執筆を依頼し、原稿をいただくため自宅へ行くと、和田夫人が海苔の佃煮のビン詰めをくれたので、びっくりしたことがある。
この本には泣ける話が山ほど出てくる文壇いろはにほへと武芸帳。いずれの作家も編集者出身で、編集者と作家がくんずほぐれつの格闘をした時代があった。