「快楽とフロイトの「死の欲動」 - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

 

「快楽とフロイトの「死の欲動」 - 木原武一」快楽の哲学 NHK Books から

ファウストは快楽の極致で息絶えるが、そこには快楽というものの本質がよくあらわれている。快楽の絶頂では欲望が消失し、欲望の消失は死に通ずるという本質である。いわば「もうこのまま死んでもいい」という絶頂感によって、快楽は完結する。満たされない欲望がわずかでも残っているかぎり、快楽は完結せず、欲望を満たすための努力がなされる。すでに触れたように、人間の生涯はそのような努力の反復である。そのような努力に終止符を打つのが、「時間よ止まれ、おまえはなんと美しいことか」というファウストの言葉にほかならない。これは「もうこのまま死んでもいい」という意志の表明でもある。
オーストリアの精神医学者、フロイト(一八五六-一九三九)は、快楽の原理は「死の欲動」と結びついていることを『快原理の彼岸』で述べている。「死の欲動」とは、人間を死へと向わせる心身のはたらき、といった意味である。これに対比されるのが「生の欲動」であるが、フロイトは、「死の欲動」のほうが「生の欲動」よりも生命体にとって大きな力をもつと考える。その前提となるのは、生命体のあらゆる欲動は「守旧的」で「退行的」であり、以前の状態をめざすという、遺伝学や胎生学から得られた仮定である。つまり、生命は生命以前の状態に戻ろうとする欲動を内に抱えているというのである。

生命あるものはすべて内的根拠に従って死に、無機的なものへと帰ってゆくということを、例外なき経験として仮定することが許されるなら、われわれは次のようにしか言いようがない。すなわち、あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。(『快原理の彼岸』)

ここで問題となっているのは、人間を根源で動かしているはたらき(力)はいったい何であるのかということである。人間にはよりよきものをつくりあげようとする「完成欲動」が宿っていて、そのおかげで高度の文化が築かれてきたというのが一般の見解であるが、そのような見解をフロイトは否定する。

私はそのような内的欲動の存在を信じないし、また、どうすればこの心地よい錯覚を護り通すことができるのかもわからない。人間のこれまでの発展は動物の発展と同じ仕方で説明されるだけでよい、と私には思われる。少数の人間個体に観察される、いっそうの完成へのやすみなき衝迫も、欲動抑圧の結果として無理なく理解されるし、この抑圧を土台に人間文化のもっとも価値あるものが築かれているのである。欲動は抑圧されたからといって、その十全な満足の追求をあきらめるわけではない。(同)

死の欲動」は、いかに抑圧されても死へと向かうはたらきを停止しないというわけである。しかし、われわれのなかにそのような欲動が本当に存在しているのだろうか。
われわれが快楽を求めて生きているのは事実である。エピクロスの言うように、快楽の追求は、心身の安定状態を求める努力である。実はそこにこそ、「死の欲動」が潜んでいるのだと、フロイトは言う。

快原理のうちに現われているような、刺激の内的緊張を低下させ、恒常に保ち、除去しようと追求する努力(バーバラ・ロウの表現によれば、涅槃原理)を、われわれが心の生活に、いやひょっとしたら神経的生命活動一般の支配的性向として認めたということが、実際、死の欲動の存在を信じる最強の動機のひとつとなっている。(同)

「涅槃」とは、本来は「吹き消す」「消滅」の意で、仏教において、あらゆる煩悩から解放された理想の境地を意味し、同時に、仏陀の入滅(死)を指す。煩悩(苦悩)からの解放は快楽の極致にほかならず、それは、死に通ずるというのが「涅槃原理」である。そのような原理が人間の生命活動を支配していると認めたからには「死の欲動」の存在を認めざるをえないではないか、というのがフロイトの主張である。人間を支配しているのは、快楽と不快の選択であるという、エピクロスにはじまる原理を認めるかぎり、このようなフロイトの見解を否定するのは不合理である。
フロイトは論点を整理し、強調する。

快原理は、心の装置をおよそ興奮なき状態にするか、そうでなければ、装置内の興奮の値を恒常に保つか、できるだけ低く保つ、という機能に仕える性向であることになる。「興奮なき」とか「恒常」とか「できるだけ低い」といった言い方のうちどちらがよいのか、いまだはっきりとは決めかねるが、そのように確定された機能が無機的世界の休息に帰還しようとする、あらゆる生命体のもっとも一般的な追求に参与していることは述べておこう。だれもが経験していることだが、人間に到達可能な最大の快である、性行為の快というものは、高く上昇した興奮が瞬時のうちに消失することによっている。(同)

快楽について語る場合、性行為は避けてとおれない。興奮の上昇と消失という快楽原理がもっとも如実にあらわれているのが性行為であり、それはまさしく「涅槃原理」に通じ、それはさらに「死の欲動」へとつながる。快楽原理はまさしく「死の欲動」に仕えている、というのがフロイトの結論である。