(巻三十六)足跡の遊びごころや雪の上(山本素竹)

(巻三十六)足跡の遊びごころや雪の上(山本素竹)

3月6日月曜日

朝は小雨のようだ。細君、腹を壊しているようで頗る機嫌悪し。朝家事は洗濯で部屋干し。

先週のBBCからは、

BBC Radio The Food Chain, The joy of feeding bird

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct38p8

の書き取りに挑んだが、アメリカ早口英語、オーストラリア英語、アイスランド英語、シンガポール英語、が揃いとても書き取れない。まだ修業が足りないのだから仕方がない。いずれ修業を積んでから再度門を叩くことにした。(そのために長生きしたいなんてことは絶対にない。)

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけた。雨はあがり、風はなく、そこそこの散歩日和だ。

今日も呑む気にならず。都住3の公園でフジちゃんに一袋あげた。いつもサンちゃんといっしょにいたのだが、今日も一匹でうずくまっていた。サンちゃんは仏になってしまったのかもしれない。駅前まで往復し、生協でサントリーハイボール缶を買って帰宅。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

「死にたい」まではいかないが、「生きていたくない」のは確かだ。そもそもが間違いだったんだから元にもどしてくれ。

昨日は、

「賃貸vs.持ち家論争 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

を読んだ。持ち家から賃貸に転向したした身である。“好きな方にしたら”である。私としては賃貸の孤立・隔絶の隣人関係の方が持ち家の面倒な人間関係、ときに利害が露骨に出る人間関係よりありがたい。マッチ箱のような家、消しゴムのような区分所有でも、ものを持った奴はどこか態度が不遜だ。そう言う奴らと顔を遇わせないだけでも賃貸に移ってよかったと思う。(写真は団地の紅白梅)

安定性の問題はある。民間では年齢で貸してくれないというし、家賃の上昇など不確実だ。反面、天災が気にならない。

家の一軒くらい建てないとみっともないと釈迦力になるのはいかがなものかとも思うが、趣味の問題だな。財産として子孫に相続という考えも趣味の問題だ。好きにすればいい。

「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

を読み返した。

蛙の夜我が生涯の一戸建(田中勝清)

「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

自己顕示と消費

ところで、消費社会についての悲観論のもうひとつの根拠は、ボードリヤール氏によるまでもなく、人間には無限の自己顕示欲と、それにもとづく無限の競争欲がある、といふ前提である。それによれば、人間はたとひ自然な欲望が満足されても浪費をつづけ、たんに他人に差をつけるために、消費のための消費をあへてするものだ、いふのであった。この主張は、一見、われわれが消費の概念を修正してもかたちを変へて生き残り、あらためて、消費社会のイメージに暗い影を投げかけるやうに見える。

すなわち、われわれの定義によって、かりに消費がものではなく、時間を消耗することだとしても、もしこの前提が正しければ、そこでは無意味な時間つぶしの競争が始まる、と考へられることになる。そして、その結果、人類はきりのない怠惰と耽美的な惑溺におちいり、社会生活に必要な最小限の効率性をも失ひかねない、といふ新しい憂慮が芽ばえるからである。

もちろん、この問題のひとつの答へは、すでに先の一節で触れたやうに、現代社会に見られる価値観の多様性と、そこから生じる競争の場の多様化といふ事実に求められるだろう。素朴な物質的欲望であれ、われわれのいふ「第二の欲望」であれ、現代ではその満足のかたちが急速な多様化を見せ、いはば、競争の目標が分散し始めてゐることは明らかである。消費者は、それぞれ自分自身の個性的な満足を探そうとしてをり、その分だけ、他人を羨んだり、逆に他人を羨ませる機会が減ってゐることは、疑ひない。そのことだけでも、われわれには一応、自己顕示欲が本質的に無意味な消費を刺戟し、宿命的に消費社会をゆがめるものだ、といふ先入見を疑ふことができよう。

だが、この先入見をもう少し深く分析すると、われわれは、その前提となってゐる誤解の根がきはめて深く、人間心理についての基礎的な認識の不用意にもとづいてゐる、ていふことに気づくのである。それは、またしても、消費と欲望の心理の不十分な観察から生じたものであるが、ゆるがせにできないのは、この誤解は深く、われわれの根本的な人間観を左右するものだからである。

端的にいへば、人間に自己顕示欲があるといふ現象の指摘は正しいとしても、それが人間存在にとって永遠の本質であるとか、まして、それが無限に拡張する宿命を持ってゐるなどといふのは、証明されていない仮説にすぎない。それは、あのニーチェ的な、無限の力への憧憬と同じく一種の神話であって、さらに疑ふなら、人間の「自我」に関する、西洋思想の伝統的な信仰にもとづいてゐる。それによれば、人間の自我は、まづ絶対に不可分な統一体であり、自分自身を完全に知ってゐる存在であって、さういふ存在として、他人とは越えがたい一線を介して対立するものだ、と考へられる。もしこの通念が正しいとすれば、たしかに、自我はみづからを完成するために他人から孤立し、みづからの存在を証明するために、たえず自分を他人よりも大きく、他人よりも力強いものとして感じつづけねばならないかもしれない。

しかし、かうした自我についての通念は疑はしく、さらに、その自他関係の理解が誤りだといふことは、皮肉なことに、自己顕示といふ行為そのものを観察しただけで、すでに半ばは明白だといへる。なぜなら、自己顕示はそれ自体きはめて矛盾した構造を持つ行為であって、一方では他人を圧倒しながら、他方ではあくまでも、他人の主体的な承認を仰がねばならない行為だからである。どんな権力や財力の誇示といへども、たとへば、それを見せる相手が完全な奴隷であっては、われわれの自己顕示の満足はなりたたない。どんな虚栄心の強い人間でも、三歳の幼児をあひてに、「見せびらかし」の満足を味はへるとは考へられない。われわれは他人の称賛や羨望を求めながらも、それ自体が他人の自由な判断にもとづき、むしろ、その人自身の自尊心にもかかはらずあたへられることを期待する。いひかへれば、われわれが自己顕示の喜びを覚えるとき、われわれの自我はその喜びそれ自体のなかで、無意識のうちに他人を自己と同等の地位に置き、その自由と主体性を認めてゐるのである。

他人をうちに含んだ自我

このことは、それだけでも、すでに自我の成立そのものが他人の存在を必要とする、といふ事実を暗示してゐるが、これは、われわれのこれまでの欲望の分析を再確認すると、さらによく理解することができる。すなはち、われわれの見たところでは、人間の自我はその欲望に関してはけっして不可分の統一体ではなく、それどころか、はっきりと二つの層に分裂してゐるのがその本質的な性格であった。人間の欲望は、いはば、あひ反する方向をめざす二つの衝動からなりたってをり、その満足は、両者の拮抗と相互作用のうちに成立するといってよい。

この二つの衝動を、われわれは先に、かりに物質的欲望と精神的欲望と呼んだのであるが、より正確には、それぞれたんに、満足を急ぐ欲望と満足を引きのばす欲望、と呼んだ方がよいのかもしれない。たとへば、性的欲望のやうに、単純には物質的とも精神的ともいへない欲望のなかにも、また、娯楽小説を読むときのやうな、普通には精神的と見られる楽しみのなかにも、やはり、この二つの正反対の方向を持つ欲望がからみあってゐるからである。

ところで、この第一の欲望と第二の欲望とは、さらに仔細に見ると、たんに対立しあってゐるのではなく、われわれの内部で第二の欲望が第一の欲望を観察し、その満足ぶりを確認するといふ関係にあることがわかる。いひかえれば、第二の欲望はたんに満足を引きのばすだけではなく、引きのばすことによって、現に満足しつつある第一の欲望の姿を拡大し、それが満足してゐることを十分に感じとってみづからの満足にしてゐる、と見ることができる。じっさい、われわれがものを深く味はふ、あるいは、喜びを噛みしめる、といふときに行なってゐることを反省すれば、この二つの欲望の相互関係は容易に理解できるであらう。そのとき、われわれは、たんにものの味を感じてゐるだけではなく、それを味はってゐる自分自身を感じてゐるのであって、そこには一人ではなく、二人の自分の満足が重なりあってゐるといへる。けだし、われわれにとって、満足を引きのばすことがけっして苦痛ではなく、かへって楽しみを強めることになるのは、それが満足の確認といふ作用を含むからなのである。

ことのことをいひかへるなら、個々の人間が欲望の十分な満足を味はふとき、彼はつねに自分の内部にひとりの「他人」を生みだし、その眼に眺められることによって満足を確実なものにしてゐる、と説明することができる。いふまでもなく、この「他人」はわれわれの自我の一部なのであって、当然、それは威圧したり競争したりする相手ではなく、われわれが全面的な信頼を寄せることのできる相手である。このやうに見ると、少なくとも、ひとが消費といふ行為にかかはるかぎり、彼の自我は本質的に他人をうちに含んで成立するものであり、しかも、他人との調和的な関係を含んで成立するものだ、といはなければなるまい。

消費の社交性

そして、もし、消費する自我がかうした構造を持つものだとすれば、やがて、それが消費の場所においても現実の他人を必要とし、その他人による賛同を求めることになるのは、自然ななりゆきであろう。じつは、満足を引きのばし、それを確認するのは孤独で不安な仕事であって、自我の内部の「他人」は、この仕事を自分ひとりで進めるのは心もとないからである。

そもそも、満足を急ぐこととは違って、それを引きのばすことには、生理能力や消費物の量といふ外的な制限もなく、またそのやり方についても、効率性といふ客観的な規則がありえない。ものの消耗といふ点からいへば、それはあへて余分な行為をすることであるが、余分なことをする以上、その仕方や程度については、われわれが自分でまったく自由に決めなければならない。現実には、食卓の作法に見られるやうに、この仕事は、ものを消費する行動に様式的な折り目をあたへ、趣味的な遊びを加へるかたちで行なはれるが、そのこと自体、ひとりで行なふのはけっして簡単な仕事ではない。一般に、人間の行動の様式が何であり、それがどのやうにして作られるかは、ここで詳しく述べる余地はないが、しかし、少なくとも疑ひないのは、それが密室の孤独な個人によって維持されるのは難しい、といふ事実であらう。

> 日ごろ、しばしば経験することではあるが、たとへば、われわれがひとりきりで食事をする場合、満足を引きのばす欲望は、容易に満足を急ぐ欲望に押しきられて作法の落着きを失ってしまふ。動作は粗野になるか、あるいはかたちばかりの様式に固執することになり、いずれにせよ、安定したいきいきしたリズムを失ってしまふ。さうした有機的なリズムのなかでこそ、われわれは満足してゐる自分自身を十分に実感しうるのであるが、そのためには、われわれの内部の「他人」は、外側の現実の他人の眼を必要とするのである。

このことはまた、人間が古来、なぜが酒宴や園遊や喫茶の会を好み、社交の場で、いひかへれば、共同の場所でものを消費することを好む、といふ奇妙な習性の説明にもなるだろう。これが奇妙だといふのは、共同作業による生産とは違って、共同の消費にはなんらの合理的な利点もないばかりか、むしろ、純粋な物質的快楽を味はふうえでは妨げとなる、とさへ考へられるからである。にもかかはらず、われわれが他人と快楽をともにするのは、さうすることによって、たがひに楽しんでゐる自分の姿を確認しあふことができ、また、たがひに調子をあはせることによって、消費行動のリズムを一定に保つことができるからであらう。

不安の徴候としての自己顕示

いひかへれば、われわれの第二の欲望、自我の内部の「他人」は、じつは自分自身を十分に知らない存在なのであり、消費をどのやうに楽しみ、どの程度に楽しめばよいかについて、ひとりでは確信を持ちえない存在だといへよう。この点でも、人間の自我についての西洋的な通念は不正確なのであって、少なくとも欲望の満足にかかはるかぎり、自我は最初から他人と共存し、その賛同を得てはじめて自分自身を知りうる存在だ、と見るべきであらう。

そして、このやうに考へたとき、われわれは、消費における自己顕示がひとつの病的な徴候にほかならず、自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現であることを理解することができる。要するに、それは、消費する自我が他人の賛同の眼を求めながら、それを手に入れたといふ自信を持つことができず、不安のあまり、不自然に身ぶりを大きくしてゐる姿にほかならない。そのとき、自我が探してゐるのは、身近にある具体的な他人の表情であり、小さな目配せにも敏感に答へてくれる他人の眼であるのに、それが見えないとすれば、表現が不必要に誇張されることになるのは当然であらう。顔の見えない他人をまへに、ひとはいやがうへにも自分の満足ぶりを見せびらかし、他人の賛同が得られなければせめてその怨恨を買ってでも、なんとかして、不確かな自分の満足を確かめたいとあせる。

この不幸な状態は、あたかも、劇場でひとつの感情を表現しようとする俳優が、突然、顔の見える観客の反応を失って、孤立無援の演技をしひられた状態にたとへることができる。彼が見失ふのは、たんに外部の観客ではなく、彼が表現しようとする内部の感情そのものであって、それをむりにも確実に感じようとすれば、表現のための動作はおのづから誇張されることになるであらう。そして、前章で述べたやうに、ヴェブレンやリースマン教授が見てゐたのは、まさに個人の顔の見える隣人を失った社会であって、誰もが巨大な世界のなかで、虚空に向かって満足を演じなければならない社会であった。

それは、産業化の末期に現はれた巨大情報媒体[マス・メディア]の誕生期であり、報道される抽象的な「世間」の姿のまへに、個人が具体的な隣人の眼への信頼を失った時代であった。「見せびらかしの消費」とは、さういふ独特の歴史的な状況のなかで、しかも、おそらくは伝統的な自我の通念に縛られたひとびとが、不安のあまりに演じた観客なき演技にほかならなかった。その意味で、われわれが予感しつつある消費社会の到来は、ひとつの社会構造の変化を伴ふとともに、人間の自我について、小さからぬ思想史的な変化をもたらすはずなのである。