「荷風先生寸感 - 和田芳恵」講談社文芸文庫 順番が来るまで から

 

荷風先生寸感 - 和田芳恵講談社文芸文庫 順番が来るまで から

記憶にたよれないので年譜を見たら、昭和二十一年一月、永井荷風幸田露伴市川市菅野に移り住んでいる。
私は戦時ちゆうから市川市八幡に住んでいた。このころ、大久保康雄が市川市北方[ほつけ]におり、顔なじみだったから行き来していたが、私は千葉市に住む上田広の房総文学会に属し、そこで金親清といっしょに、いわゆる銃後運動などをしていた。市川市には式場隆三と岸田日出刀が中心の二つの文化団体があり、どちらかへ顔を出さないと圧力が加わるので、私は房総文学会へ逃げだした形であった。房総文学会は原稿を持ち寄って、みなの前で読み、会員が批評する集りであったが、戦争がはげしくなるにつれて、房総文学報公会に名前もかわり、軍需会社の職場にある文学サークルの世話役などをやらされていた。この頃伊藤佐喜雄が疎開してきて、一時、付きあったりした。市川は江戸時代、旗本の次男坊などが隠れ遊びをしたところらしいが、戦中戦後の一時期、闇物資の宝庫で、軍需工場主の二号などが、りっぱな邸宅にかこわれていた。
荷風は従弟杵屋五叟の間借人、露伴も小さな家で、つましく暮していた。ここは私の散歩区域にあった。すぐれた文士が世にかくれている風情があった。私の娘は、永井の小父[おじ]ちゃまなどといって、女学生仲間といっしょに荷風先生を友だちあつかいにして遊びに伺っていたが、私は露伴荷風も、ただ遠くから仰ぎ見ていた。
牧屋善三が「文化ニュース」というタブロイド判の新聞を編集していて、私に名士の訪問記事を書かせた。手はじめに永井荷風志賀直哉を尋ねろという。私の責任で訪問記を書くのではなくて、私がまとめたものに手を加えてもらい、語った人の名で出すということだったから、かなり困難な仕事であった。私は荷風先生に逢うことにした。荷風先生は、どうしたことか、私の書いたものを見ないで、永井荷風の署名をしてよいとゆるしてくれた。上林暁は、この文章の一部をひいた感想を「新潮」に発表したが、これは荷風坂口安吾の「堕落論」に触れた意見で、すぐれた内容のものであった。私は荷風先生に認められたという気持があって、足繁く通うようになった。
私の近所に内田という株屋が住んでいた。慶応義塾の理財科出身で、第一次世界大戦後、ヨーロッパへ渡り、フランスに長く滞在していた人である。戦争がはじまると、私財で蒔絵などの骨董を買いあさり、敗戦後のインフレにそなえたりするような目先のきいた人であった。頤のところに突き傷のあとがあり、自殺未遂者だなどと内田は私に言ったりした。
実業家に荷風文学の心酔者が多いが、内田も、その一人であった。私は同じ町内に住んでいたせいもあるが、内田の遊び仲間に加えられていた。深川の木場に近い冬木町にかこっていた女と別れるとき、いっしょに連れられていったりした。
戦争後、内田が出版をはじめようということで、私が参謀格になった。処女出版は荷風の「ふらんす物語」と決った。
私が荷風のところへ通っているうち、扶桑書房の若い社長が、リュックに洋モクや砂糖、缶詰類などをつめて運び込んでいた。荷風先生は、はさみで短く切った洋モクをきせるにつめてのんでいたが、これも扶桑書房の貢物であった。荷風が、うれしそうな顔で貢物を押入れにしまいこむのを、私は、しばしばみていたから、内田にすすめて、たべものを運び込むことからはじめた。荷風先生は上機嫌であった。
内田に代って、私が出版の話を切りだすと、急に表情がけわしくなり、君は出版屋のまわし者だったのかと荷風が言った。これは博文館が原因だが、荷風の出版社、編集者ぎらいは伝説化されていた。これは私も心得ていたが、つい甘えて気をゆるしたのがいけなかった。その後の荷風先生の私を見る眼に、いつも警戒の色があった。