「『荷風と東京』のあと - 川本三郎」98年版ベスト・エッセイ集 から

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「『荷風と東京』のあと - 川本三郎」98年版ベスト・エッセイ集 から

荷風の読者は意外なところにいる。
先だって、文藝春秋から出版されたナチュラリスト足田輝一さんの植物エッセー『雑木林の光、風、夢』(面白い!)を読んでいて晩年の足田さんが荷風を愛読していたことを知った。
胃の手術をしたあと、荷風をよく読むようになったという。
「よる年波のせいだか、近ごろしきりに永井荷風が、身近に感じられる。それも、『断腸亭日乗』や随筆の『日和下駄』『葛飾土産』などが、味が深い。入院手術いらいの世間から離れた暮しが、荷風の世間にそむいた心情に、通ずるものがあるからだろうか」
荷風は植物を愛し、偏奇館の庭にさまざまな草花を植えた。折りを見て、館柳湾の園芸書『林園月令』などを読んだ。植物愛好家の足田さんは、そういう“庭の人”荷風に親近感を持ったのだろう。
足田さんの本を読んで、わからなかったことをひとつ教えられた。『断腸亭日乗』昭和十八年三月五日に「帰宅後火鉢にて豆を煮ながら花鏡をよむ。此書伊藤圭介翁の蔵書印あり」とある。この「花鏡」が分らなかったのだが、足田さんによれば『秘伝花鏡』という中国清代の園芸植物書だという。「当時の文芸家などが、まったく目もくれなかった植物古典を、暮夜読みふけっていたのだ」。荷風の独居隠栖の迫力を改めて思い知らされる。
足田さんは、年を取ってから荷風を身近に感じるようになったと書いているが、一般に荷風の読者は年配の男性が多いようだ。若い女性で荷風を読んでいるというのはほとんど聞いたことがない。「老人文学」「隠栖者文学」だからだろう。
荷風が亡くなったのは、昭和三十四年四月三十日。ゆかりの三ノ輪、浄閑寺では毎年この日、荷風の愛読者が集まって荷風忌が開かれる。今年、招かれて小さな話をしたが、出席者の大半は年配者だった。
谷崎潤一郎に比べると荷風の読者は数では少ないが、「荷風マニア」といいたいほどの熱心な読者が多い。六年ほど前の「日本古書通信」の調査によると、近代文学の作家の全初版本を集めるのに要する費用は、荷風の二千万円が最高で、以下、漱石千三百八十万円、川端康成千二百万円、泉鏡花一千万円、三島由紀夫七百五十万円、島崎藤村七百万円となっている(青木正美『古本屋控え帖』による)。荷風が一位なのは、それだけ熱心な読者が多いことと、古書好きと荷風好きは重なるからだろう。

荷風忌では、参加者からひとつ教えられたことがあった。荷風の二番目
の奥さんは、八重次という芸者だったが、荷風と別れたあと藤蔭静樹と名を改め、踊りの師匠として名を成した。昭和四十一年の一月に亡くなっている。この人のお墓がどこにあるか、わからないといったところ、年配の男性がたちどころに教えてくれた。
「お墓は、芝の増上寺の近くの安蓮社にあります」
こういう細部にこだわるところが、荷風の読者ならではで、感服してしまった。荷風掃苔趣味、つまり、文人の墓参りを好んでした人だから、荷風の読者も自然と墓所に“敏感”になる。
荷風自身の墓は、雑司ヶ谷墓地にあるが、生前、浄閑寺を愛し、何度も足を運んだので、亡くなったあと、ここに文学碑が作られた。吉原の遊女の投げ込み寺として知られる古刹で、陋巷を愛した荷風にふさわしい。余談だが、写真家の荒木経惟さんは三ノ輪の生まれ。子どもの頃によく浄閑寺の境内で遊んだという。

最近、浄閑寺では思わぬ縁に恵まれた。
これまで浄閑寺には何度も来ているが、寺の人にきちんと挨拶をしていなかった。荷風自身もそうしていたので、それに倣った。しかし、昨年の秋『荷風と東京』を出版したのを機に、はじめて寺の御住職、戸松學童さんに御挨拶をした。その席で、お嬢さんの戸松泉さんにお目にかかり、泉さんが私と“兄妹弟子”であることがわかった。
戸松泉さんは、現在、相模女子大の助教授。夏目漱石の研究家である。東京女子大を卒業している。女子大時代の先生が、近代文学の研究家、佐藤勝先生。この先生こそ、私が、高校時代に教えを受けた碩学で、私が、文学好きになったのは、佐藤先生の影響が大きい。
先生が東京女子大に移られてからの教え子が、戸松泉さんになる。私のほうが若干、“兄妹弟子”になる。荷風ゆかりの寺(荷風の読者にとっては「聖地」といっていい)、浄閑寺の住職のお嬢さんと、先生を同じにしていたとは、なんだか、意外で、うれしい縁である。