(巻三十六)死ぬまでは転ぶことなく寒雀(三橋敏雄)

(巻三十六)死ぬまでは転ぶことなく寒雀(三橋敏雄)

3月14日火曜日

真冬なら暖かいと思う気温だが、ここ数日暖かい日が続いたあとなので10度を超えていても寒く感じる。

朝家事は洗濯、部屋干し。

昼前に生協まで買い物に行き、往復でトイちゃんにスナックをふるまう。その一粒が買い物袋にこぼれて落ちたようで、品物をしまっていた細君に気付かれた。何だろう、何だろう?とつきまとわれたが、なんとかとぼけて「分からないよ」としらを切った。

5年ほど前に野良猫に餌を遣っていて深く引っ掻かれて医者に行って以来、猫とかかわり合いになるのは法度なのである。

野良猫との程良い間合い節分草(西田美智子)

昼飯喰って、一息入れて、散歩。東京の開花宣言が出されたとのことなので桜通りのさくらを見上げた。並木の中の一本だけ、管理事務所のそばの桜だけ三輪開いていた(一撮)。

桜からクロちゃんに会いに行き、戯れた。サンちゃんが亡くなったあとフジちゃんを見かけない。

そこから図書館で貸し借りしてから時間を合わせて「さと村」に伺う。今日は最初の客だったが、すぐに男二人の二組が入店。今日は、ガリ、タン塩2本、厚揚げでホッピー中一と頂いた。揚げたての厚揚げは旨い、盛り付けもうまい(一撮)。今日は淡路の兄ちゃんと小太り兄ちゃんのペアだが、小太り兄ちゃんの自然な笑顔がなかなかよろしい。店を明るくする。

お代は1550円也。

今晩、火曜日の10時からは「きしゃぽっぽ」(FM葛飾の鉄ちゃん番組)があるので帰りにコンビニで角ハイ濃いめを調達しておいた。

英聴は

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000wz4r

に挑んだが前半は今までで最悪だ。しかし、こういうので足掻き苦しんでおくと、BBCのプレゼンターなど綺麗なやつは楽に聞ける。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

さすがにまだいまのところは自裁はできない。酒の力を借りて少しずつだ。

「庖丁人 - 金井厚」文春文庫 巻頭随筆6

此所小便無用花の山(其角)

「庖丁人 - 金井厚」文春文庫 巻頭随筆6

父は無学で吝嗇[りんしよく]だったが、自慢話と説教だけはしたことがなかった。

尋常小学校を卒えて、板前修業に出、職場は転々と変ったが、七十三で他界するまで庖丁一本の生活だった。私がものごころつくころには、某ホテルの料理長をつとめていたが、若いときは、それこそ義務のように三道楽を欠かさず、月給も入れないようなことがたびたびあったらしい。戦争で疎開するまでは深川に住み、母は辰巳芸者の着物を縫って生計を支えていた。

昔話もめったにしなかったので、父がいちじ宮内庁にいたこともあると聞かされたのも、死んだ母の口からだった。

「ふた夏ほどいたんだよ。宮内庁からはずっといるようにって引きとめられたんだけど、板前は三月一稼業だって、腕を磨かなきゃしょうがないって.....もう、いくらなんでも落ち着いてもいいころだったけどね」

そのことを父にたずねたら、

「あ、那須御用邸に行ったんだ。陛下のお供をして.....あのときは全員検便までさせられて.....」

何やら、楽しそうに、笑っただけである。昭和三十年ごろであったろうか。あるいは、もう少し古い話かもしれない。明治の人だから、とうに四十は越えていたはずだ。

そのまま籍を置いていたら、天皇の料理番だったかもしれないが、父にしてみると、宮中の料理も修業課程のひとつだったらしい。天皇の料理番といえば、フランス料理の第一人者だった秋山徳蔵が有名だが、維新前後のころまでは、いうまでもなく、宮中も、それこそ千数百年にわたって、日本料理が主流だった。庶民の食の流れも大差ないといえるだろう。戦前までは、宮中の料理を範とする気風が、当時の庖丁人の間ではまだ根強く残っていたのである。とりたてて、父が変った行動をとったわけではない。

戦後の二十三年、「日本料理研究倶楽部」からもらった一枚の感謝状の文面は少し大袈裟だが、当時の世相を反映していておもしろい。「馬鈴薯料理展覧会開催に際し優秀なる作品を出品し廣く我国食生活に貢献せられたるは」とある。東京都、日本栄養士会共催で、後援が厚生省、農林省、そして食糧配給公団。山口判事が配給食糧のみの生活を守って、栄養失調で死亡した事件は、その前年である。三度の食事を二度に減らし、一日中代用食で過していた家庭が五十七%、米があっても三食とも雑炊という家庭が二十三・八%に達していたころである。天明の大飢饉のときも庶民の食生活を支えたのは甘藷である。天災であれ、人災であれ、「お芋さん」に助けられているのがなんともおかしく、ホロ苦い。ちなみに、いま居酒屋で、OLにもっとも人気の高いメニューは「肉じゃが」だそうである。それにしても、いったい何を創ったのだろう。いまとなっては知る由もない。

料理人の生態はとてもひとくちではいえないが、地方の旅館の息子などが上京してホテルや一流料亭に就職し、十年、十五年の修業を卒えて、故郷に帰って跡を継ぐといったケースは少なくない。親元に置いておけばどうしても甘やかすし、親がどんなに厳しく仕込もうと思っても、使用人が遠慮する可能性があるので、他人の手にゆだねるのは、なにも板前社会にかぎらないであろう。ひととおりの修業を卒えて小料理屋を開業するケースもあるし、開業資金が足りずに勤務医を続けるのと同様、一生、職人で終える人はもちろん数多い。

父がホテルにいたころ、同系列のホテルの料理長が、社長夫人の一言で首になったということがあった、昼時の注文で、出されたカツ丼が「水っぽい」という理由だった。社長夫人がくることは事前に知らされていなくても、だれかがご注進に及んだはずで、料理長みずからが手がけた可能性は高いが、あるいは若い者にまかせたのかもしれない。「バカだな。(数人前)いっしょに作っちゃったんだな」

父がいった。余程たてこんでいたのだけはまちがいない。そういうとき、板前は文句もいわず、さっさとあがってしまうのである。

「辞める」ことを「あがる」というのは板前社会の用語である。ハタから見ると随分危うい世渡りだが、それが習慣だ。

展覧会といえば、晩年にも出品したことがあるが、こっちの方はなにを作ったのか、手許にある一葉の写真が物語っている。いずれも口変りに供するもので、赤飯羊羹、菜の花玉子、慈姑[くわい]水仙寺巻き、大和豆腐、雪中苺、御影豆腐の六品。赤飯羊羹はお七夜に用い、御影豆腐は初七日に出す一品である。初七日の風習も廃れているだけに、いずれ消える料理のひとつかもしれない。

庖丁の片袖くらし雲の月 其角