「眠狂四郎の生誕 - 柴田錬三郎」柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から

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作家は、小説作りの楽屋話をするのを、あまり好まないらしい。私も、好きではない。それぞれの商売には、コツがあり、そのコツをしゃべってしまっては、ミもフタもなかろうし、専売特許を公開する必要はない。
たしかに、これは、秘密にしておくべき手の内なのだが、凡夫というものは、ときどきなにもかも面倒くさくなって、あらいざらいさらけ出したくなる衝動にかられるものである。
私など、べつに、われから好んで、剣豪作家になったわけではないので、剣豪小説のコツなど、ソ連の魔術師のように、ひたがくしにする必要もない。私は、剣豪小説を書きはじめる時、従来の時代小説の法則をいかに無視するか、あるいは、それに、どのように反逆するか、ということを考えた。いわば、これが、私の専売特許となった。
私が、「眠狂四郎」を創り出したのは、たしかに、「机龍之助」が、頭の中にあった。机龍之助とは、まことに、いい名である。いつまで経っても古くならぬ名である。私は、マスコミに売り出す名は、こういう、いい名でなければならぬ、と考えはじめた。机は、小学校へいかなかった人をのぞいて、すべての人間が使っている。だから、おぼえやすいのだ。そこで、私は、人間が、毎日必要とする品ものを考えた。ところが、どうも、うまいのがない。そのうちに、
- そうだ。睡眠ならば、誰でも、とらざるを得ないじゃないか。
と思いついた。生れて死ぬまで、「眠」からははなれることはないのだ。これを姓にすれば、すぐ、おぼえられるではないか。
眠狂四郎」は、こうして生れた。つまり、私のサービス精神は姓名をつくる時から発揮されたわけだ。名ができると私は、そいつの性格、境遇をつくるために、日本の物語中のヒーローを思いうか[難漢字]べ、かれらが持ち合さない特質をそなえさせようと努力した。
時代小説の主人公は、これまで求道精神主義者か、しからずんば正義派であった。そして、刀を抜くことに、ひどく、もったいぶっている。(丹下左膳のようなバカは論外である)氏素性は正しいし、女に対してピューリタンで、万事理想的にできすぎている。

そこで、私は、いちいち、その逆をとることにした。
生誕は、最も陰惨であること。これは、かれの運命を、極度にひき歪める根本条件となる。つまり、いつ、殺されても一向にかまわないような人間にしてしまう。こういう主人公は、いままでの時代小説にはなかったはずである。 
その陰惨な条件をあれこれと考えているうちに、戦後において、混血児という存在が、奇妙な浮かびあがりかたをして、万人の関心をあつめていることに、気がついた。
そこで、私は、当時、禁教として戦前の「赤」よりももっと、忌避されたキリシタンをむすびつけることにした。異国の伴天連[バテレン]が、拷問のゆえに、信仰を裏切って、ころび、悪魔に心身を売って、女を犯した挙句、生れた子 - これほど、形而上的にも、形而下的にも、陰惨な生いたちは、ない。ニヒリストたらざるを得ないではないか。
日本においては、「信仰」というものは、庶民の血の中にまで浸透していない。したがって、伴天連が、悪魔に心身を売る、ということは、理解されにくい。その点の不安はあったが、戦前において、共産党員が、特高刑事に、どんなむごたらしい拷問を受けたか - これは、知らない者はないし、また転向した人間の、みっともない行動も、知れわたっている。いわば、「信仰」を「思想」と置きかえて、受けとってもらってよいときめたわけである。
さて、ニヒリストならば、一刀三拝式のさむらいであるわけがない。刀は、「武士の魂」ではなく、あくまで凶器であり、凶器であれば、どう使おうと勝手である。女の衣裳を剥ごうが、犬を斬ろうが、糞を突こうが、かまいはしない。
いわば、眠狂四郎が、剣を修業したのも、刀を抜くのも、従来の求道精神的図式の埒外において、なされる。すなわち、近代人が所有する自虐精神から生れたものであり、自虐が示す虚構のてづま、とでもいえるわけである。尤[もっと]も、こういう作者の裏切り行為は、作者自身の快感のためであることは、あらそえない。だからこそ、週刊誌に、毎週、一篇ずつ - せっせと、百何十篇も、いまも書きつづけていられるわけだが......。
ところで、私も、「眠狂四郎」ばかり書いていられないから、ほかにも、たくさんの長篇をつくったが、これらは、いつか、このパンフレットの随筆に書いたように、名作としてのこっている作品を下敷きにした。「ハムレット」や、「モンテ・クリスト伯」や、今日でもひろく読まれている名作には、読ませる必然的な魅力がある。それは、あきらかに、主人公の性格と境遇の魅力である。私は、それをぬすむことを、べつに、犯罪だとは思わない、ただ、いかに、それを、自分のものにするか - そのコツを心得ていればいいわけである。
極端ないいかたをすれば、「ハムレット」と「モンテ・クリスト伯」と「三銃士」をいかにミックスするか、その板前の庖丁の冴えで、いくらでも面白い大衆小説はつくれる、と思うのである。私の「眠狂四郎」のまねなどするのは愚の骨頂である。新人は、よろしく、泰西名作と四つに組むべきであろう。