(巻三十六)本名を豆腐芸名冷奴(増山山肌)

(巻三十六)本名を豆腐芸名冷奴(増山山肌)

4月25日火曜日

曇り。朝家事は特になし。昼前に買い物。生協のデポジットの機械に列が出来ていた。給料日に払い込んでおくのかね?

昼飯喰って、一息入れて、散歩。雨が降りだしそうなので、先ずクロちゃんを訪ねて、それから近所を歩く。

特筆する事なし。

平仮名で綴られた

「山の雪 - 高村光太郎

を読み終えたあと、古風な文体でルビがないと読めず判らずの

「蛇くひ - 泉鏡花」ながすぎる蛇のアンソロジー別役実編 から

を読み始めた。鏡花は初めてだ。

一頁ほど読んで怖くなってやめた。へんな怖い夢をみることになりそうなのである。怖がらせるにはまったくもってこいの文体だ。

《西は神通川の堤防を以て畫[かぎり]とし、東は町尽[まちはづれ]の樹林境を為し、南は海に到りて尽き、北は立山[りふざん]の麓に終る。此間[このあひだ]十里見通しの原野にして、山水の佳景いふべからず。其[その]川幅最も広く、町に最も近く、野の稍[やや]狭き処を郷屋敷田畝[たんぼ]と称[とな]へて、雲雀[ひばり]の巣猟[すあさり]、野草摘[のぐさつみ]に妙なり。

此処往時[むかし]北越名代の健児、佐々成政の別業の旧跡[あと]にして、今も残れる築山は小富士と呼びぬ。

傍[かたへ]に、榎を植ゆ、年経[ふ]る大樹鬱蒼と繁茂[しげ]りて、昼も梟の威を扶[たす]けて鴉に塒[ねぐら]を貸さず、夜陰人静まりて一陣の風枝を払へば、愁然たる声ありておうおうと唸[うめ]くが如し。

さればここ[難漢字]に忌むべく恐るべきを(おう)に譬[たと]へて、仮に(応)といへる一種異様の乞食[こつじき]ありて、郷屋敷田畝を徘徊す。驚破[すは]「応」来[きた]れりと、》

他の作品で読みたいものを探していたら、「シロヘビ-畑正憲」が出てきた。なるほど、この作品が入っているので追悼コーナーに置いてあったのだ。納得。何れを捲っても気持ちが悪くなりそうな話ばかりなので返却本を入れたズタ袋にお引き取り願った。

英聴は

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000p10y

を再聴いたした。

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死。

老老のカップルをよく見かける。助け合って美しいと見れば美しいが、冷めて見れば酷な景色だ。迷惑はかけたくない。

「ふたりで老いる楽しさ - 小田島雄志」ベスト・エッセイ2007

なんぞと大先生は仰るが、同床異夢。いや別室異夢か。

囀りの一羽の自在二羽に失す(林亮)

「ふたりで老いる楽しさ - 小田島雄志」ベスト・エッセイ2007

ひとりで老いるのはさびしいことだろう。そう思う。さいわいぼくは、同年生まれの妻といっしょに老いてきたし、これからももっと老いていくだろう。もちろん今まで、老いゆえにとまどうこともあったし、いらだつこともあった。だが七十代に入ってからは、老いることの楽しさも見いだせるようになった。その例を三つほどあげてみよう。今ひとりで老いようとしている人に、再婚のつれあい、学生時代の親友、いや、茶飲み友だちでもいい、同じ時代に貧しさに耐えたり恋愛映画に感動したりした思い出を共有する同年輩の話し相手を身近にもつよう、すすめたいからである。

最初に老いを自覚するのは、電車で席を譲られたときではない。そのときはただびっくりし、「けっこうです、どうもありがとう」などとボソッと言って、そそくさとその場を離れたりするが、腹の中では「まだ席を譲られる歳じゃねえやい」と強がっている。だが自分の気持に体が追いついていけなくなったとき、はっきり老いを自認することになる。

たとえばプラットフォームに入る電車の音を聞いて、若いころなら階段を二段ずつ飛んで駆けあがり、飛び乗ったのに、やがて気持は飛び乗るところまで行ったのに体はやっと階段をのぼりきろうとするところでドアが閉まり、「ああ」と言うことになる。この「ああ」が、年齢の自覚なのである。

それが七十代になると、駆け出す前にはじめからあきらめてしまう。そのとき、ひとりなら若干の切なさ、なさけなさが気持にまじるかもしれないが、たとえば同年齢の妻といっしょだと、妻を思いやっ(たふりをし)て、「次の電車にしよう」と言えるわけである。

それだけでなく、続けて、

「電車にやっとまにあった人はたいていむつかしい顔をして新聞をひろげたりするのに、乗りそこなった人はなぜかニヤッて笑うわね」

「そう言えば貧乏学生時代、階段の途中に一円玉が落ちているのを見つけて、一瞬迷ったけれど、電車を一台見送ってもいいや、と拾ったときは、われながらせこいと思いながらニヤニヤしてしまったね」

といった楽しいばか話を交わすことができる。これも若いころにはなかったゆとりという老いの特典から生まれるものである。

次に老いをいやおうなく意識させられるのは、ど忘れの頻発である。特に、固有名詞、人の顔は思い出せるが、名前は断固出てこようとしない。そのとき、同じころ同じ映画を見歩いたはずの人がそばにいると、

「ほら、あの俳優、なんていったっけ、フランスの裕次郎

ジャン・ギャバン?」

といった対話ができ、しかもこのように一発で当たるとふたりともなんだかハッピーになるからおもしろい。また逆に、

「あの女優ね、えーと、ジ......ジ......」

「ジジ・ジャンメール?」

「じゃなくて、もっと若い......」

「ジュディ-・ガーランド?ジェーン・フォンダ?」

「いや、ほら、ジェラール・フィリップと共演した......」

「『赤と黒』?『肉体の悪魔』?」

「いや、『花咲ける騎士道』だ......」

「ああ、ジーナ・ロロブリジダ?」

などと、正解にたどり着くまで時間がかかるのも楽しめる。やっと正解が出たときの喜びは、テレビのクイズ番組で他人が賞金や賞品を手に入れるのを見るより、はるかに大きい。あたりまえの話だけど。

ぼくの場合、認知症防止のため、わざと妻に仕掛けることもある。このゲームは食後のお茶を飲みながら、散歩の途中、などいつでもどこでもできるので、おすすめである。

最後に、おたがいに発音があやふやになり、耳も遠くなると「言った」・「聞いてない」の言い争いや、言いちがい・聞きちがいのすれちがいが日常茶飯事になってくる。が、この歳になるとそれさえ笑いのタネにすることができるようになる。たとえば、

「そろそろ歯医者に行かなくちゃ」

「なに言ってるの、会社はもう退職したでしょ」

「退屈なんてしてないさ、奥歯が痛いんだよ」

「職場にいたい、って気持はわかるけど、おとなしくうちにいれば?」

「うん、そのうちに入れ歯を入れることになるかもしれん」

といったたぐいのトンチンカン問答をしたあと、聞きちがいとわかったら、「おまえの耳が悪い」、「あなたの口のせいよ」と相手を責めずに、日本語っておもしろいなあ、と笑い飛ばすユーモアのセンスでかわせばいいのである。

若いころには思いもよらなかったことに出会って、年とったなあ、と落ちこみたくなるとき、その気分をはねのけて、なにがなんでも楽しんでやろう、と気持をきり替える必要がある。楽しみは待っていてもこない、こちらから見つけ出すものなのだから。