「三千円の使いかた(原田ひ香)の解説 - 垣谷美雨」中公文庫三千円の使いかた から



 

「三千円の使いかた(原田ひ香)の解説 - 垣谷美雨」中公文庫三千円の使いかた から

副題 「他人[ひと]は他人、自分は自分」とあなたは心の底から割り切れていますか?

この物語を読み終えたとき、そう問い質[ただ]されている気がしました。
格差が広がりつつある今の日本社会で、自分らしく生きるとはどういうことなのか。ともすれば私たちは、他人と自分の暮らしを比べ、劣等感や優越感を抱きがちです。そんな私たちに、この本は様々なことを教えてくれます。
読み終えたあと、私はしみじみと自分の来[こ]し方を振り返りました。そしつ、前々からこういう本が読みたかったのだと気づきました。
というのも、私自身ずっとお金のことを考えて生きてきたからです。頭から消えた瞬間などないといってもいいほどです。スーパーでトマトを買うとき、インターネットでワンピースを買うとき、カフェでソイラテを頼むとき……常に頭の中で、「これは高いか安いか」を思い悩みます。そして、馴染みのない店に入って席に着いてしまったあとで、最も安いメニューが八百円もするコーヒーだと知ったとき、入店したことを激しく後悔します。自分一人ならまだしも、家族四人なら死にたくなります。幼い子供たちを連れて公園に遊びに行った帰りなら、自動販売機で飲み物を買って外のベンチで休息すれば安く済んだのです。いやそれ以前に水筒を持ってきていろば……嗚呼、なんてことなの、私のバカッ-たぶんこの気持ちは、多くの人々にわかってもらえるのではないかと思います。
これまでの私の人生を振り返ってみても、限られた夫婦の収入の中から頭金を貯めて住宅ローンを組み、子供たちを大学まで出し、そのうえで自分たちの老後の資金を貯めなければならない。そのプレッシャーに押しつぶされそうな日々でした。少しでもコスパの良い消費を目指して試行錯誤を繰り返し、なんとしてでもこの厳しい世の中で生き残っていかなければと、そんなことばかり考えて暮らしてきたように思います。
そして、この物語の舞台が東京であることもネックです。東京という大都会は、経済格差が大きい街です。お金持ちにとっては文句なしに楽しめる街ですが、そうでない人々は住居費に苦しみ、思う存分楽しむというわけにはいきません。そしつ、ふとした拍子にお金持ちて自分の境遇を比べてしまい、虚しさに襲われる街でもあります。ですがその反面、無料で楽しめる博物館や美術館や公園や動物園や体験型施設など、数え切れないほどのスポットがあるので、堅実な人々は情報を集め、工夫を重ねて余暇を謳歌するという選択ができる街でもあるのです。
この物語は、全ての世代の人の心に響く構成になっています。会社員の美帆(二十四歳)には、恋人が抱える多額の奨学金と、金銭感覚がズレている彼の両親の問題が浮上します。美帆の姉である真帆(二十九歳)は、子育て中の専業主婦で自分の生活に満足して楽しく日々を送っていました。ですが、友人との再会で「私ももっとお金持ちの男性と結婚した方がよかったのではないか」という考えが突如として湧いてきて、その心のざわめきに戸惑います。そして彼女らの母親である智子(五十五歳)に起こる熟年離婚の問題。そのうえ祖母の琴子(七十三歳)は老後の金銭的不安に立ち向かいます。このように、四人の女性それぞれの現実的な金銭感覚をもとに物語が展開していくのです。

 

物語に出てくる様々な出来事は「あるある感」が満載です。この先どうするつもりなのだらう。私ならどうするだろうと先が気になり、ページをめくる手が止まりませんでした。このような「あるある感」が満載の物語は、読む側にとって「自分ごと」として深くストーリーに入り込むことができるので、自身の普段の行動や考え方を見つめ直すチャンスにつながります。
実は、私の小説を読んでくださった人々の多くが、「あるある感」が満載だと言います。私はそれを聞くたびに、「よくあることを書いているだけだから誰にでも書ける」と批判されている気がして、これまではあまりいい気分ではありませんでした。ですが、私はこの物語を読んだとき、この著者はすごい人だな、普段よく目にする市井の人々のちょっとした行動や言動から、その人の気持ちや性格まで鋭く読み取っている。そして、それを見逃さずに文章に表現できる。なんてすごい才能の持ち主だろうと感じ入ってしまったのです。
そのとき私は、「あるある」を書くことがいかに難しいことであるかに初めて気づきました。私の心の中で、「誰にでも書けること」が「高度なこと」に変わった瞬間でした。そしてその能力は、訓練や努力では得られない、生まれついての、いわば「知的過敏さん」(本当はカッコつけて「繊細さん」と言いたいところですが)だけが成し得ることではないかと、新たな発見をしたのです。

 

四人の女性の中で、最も私に強い印象を残したのは、子育て中の専業主婦である真帆(二十九歳)でした。真帆は、初恋の相手と二十三歳のときに結婚しました。高校時代から交際していた彼は消防士となり、安い賃貸アパート暮らしも何のその、子供も生まれて幸せに暮らしていました。そんなある日、学生時代からの仲良しグループの一人が婚約し、そのお祝いをしようと、女ばかりでレストランに集まります。そこで、友人の薬指に光る大粒のダイヤの指輪を目にします。そのうえ友人は、お相手の親にタワーマンションを買ってもらったと知り、真帆は複雑な気持ちになります。問題はそのあとです。独身である友人たちは、「今だから言うけど」といった雰囲気の中で、口々に言うのです。
-真帆が就職してすぐに結婚してあっさり仕事をやめたのには、びっくりした。
-あたしだったら、たぶん、もっといい人がいるんじゃないかな、って考えちゃう。
まるで、「あんな安月給の旦那で、よく仕事やめられたね」と言われているようで、自分が今までそんな風に見られていたのかとショックを受けるのです。
学生時代は仲がよくても、そのうた未婚か既婚か、子供がいるかいないかなど境遇が異なってくると、自然と話が噛み合わなくなってくるものです。だったら全員が「既婚・子持ち」の身になったら話が合うのかというと、そんなことはありません。経済力の差によって暮らし方が違うので、関心ある話題も悩みも異なってきます。
私自身、子供たちが巣立ち、やっと自由の身になれたと肩の荷を下ろした頃、同じように身軽になったかつての同級生などから「旅行しようよ」と、頻繁に誘われた時期がありました。ですが、計画のほとんどは頓挫しました。たまたまかもしれませんが、私の友人たちは経済格差がとても大きいのです。例えは、都内にある高級住宅地の大地主の一人息子と結婚したリッチな女性もいれば、いわゆるダメンズと結婚して老後が不安といった女性たちもいて、振れ幅が大きすぎるのです。
そもそも大金持ちの友人は、普段の服装からして違います。
-あら、そのジャケット、素敵ね。
そんなちょっとした言葉を、私は素直に口に出すことができません。あまりに自分の服とのレベルが違いすぎて、気づけば彼女のジャケットを穴の開くほど呆然と見つめてしまっています。
そして、旅行の計画を話し合えば合うほど、人間関係がこじれていき、精神的にダメージを受けました。乗り物のクラスやホテルの等級や航空会社などへのこだわりが各人にあり、どれくらいの旅行費用なら高く感じるか、それとも安く済んだ感じるのかといった感覚の差も大きくて、妥協点が見つかりませんでした。
学生時代は腹を割って何でも話せた親友であったはずなのに、お金の話となると互いにオブラートに包む言い方しかできず、結局はどうしても折り合わず、旅行を諦めざるを得ませんでした。海外旅行の場合は、行き先の好みは千差万別だし、各人の事情によって家を空けられる日数も様々です。費用も高いですから、都合が合わないのは仕方ないと思えますが、国内旅行でもダメだったのです。
お金を持っている方が、持っていない方の金銭レベルに合わせればいいと考える人もいるかもしれません。ですが、それだってそう簡単ではないのです。
私自身にも国内旅行に対するこだわりが幾つかあります。一つ目は、いくら仲が良い間柄でもホテルの部屋は別々にしてほしいこと。高級な温泉宿よりホテルの方が好きなのですが、できれば築浅で清潔感があること。そして、体力に自信がないので、空港のある地域への旅行なら列車ではなく飛行機で行きたいこと。この三点です。ですが……。
-寝るだけなんだから、私はカプセルでもいいけど。
-ツインに二人で泊まれば安く済むのに、どうして別々にするのよ。せっかくの旅行なのに夜通しおしゃべりできないなんて、おかしいよ。
そんなことを言われたって、私は一人になれないと疲れが取れないタチなので、絶対に一人部屋の条件は譲れません。それと、宿泊施設の清潔感に対するこだわりは、それが年齢のせいなのか、それとも時代のせいなのかはわかりませんが、もしかしたら潔癖症かもしれないという自覚もあり、そのことは自分でもどうやっても修正できないのです。
そういった経験から、友人たちとの付き合いは、互いの家に招いてケーキとコーヒーで何時間もおしゃべりしたり、レストランでランチするくらいがちょうどいい、それだ互いのプライバシーを尊重した大人の付き合い方ではないかと(寂しい気もするけれど)思うようになったのでした。旅行会社の「おひとり様ツアー」が流行るはずです。
四十代より五十代、五十代より六十代と、歳を重ねるほどに家計経済の格差が開いていきます。ますます友人との妥協点は見つからなくなります。大金持ちの友人は、マンションの家賃収入や株の配当金など、不労所得が貯まる一方です。その一方、ダメンズと結婚した友人たちは、家計の深刻度が増していくように見えます。六十歳を境に再就職はパートでも難しくなり、稼ぐ手段が極端に狭まるのです。この物語に出てくる祖母の琴子(七十三歳)は、果敢に挑戦し、現実的な方法を見つけていきます。

 

私や友人たちが結婚したのは一九八〇年代で、結婚のきっかけは私が知る限り、全員が「好きだから結婚した」という、なんとも純粋(単純で世間知らずとも言えるが)な気持ちだけだったように思います。真帆と同じように二十代前半のときで、いま振り返ってみると、みんな本当に子供でした。
その純粋な気持ちに暗雲が立ち込めるようになるのは、子供に教育費がかかるようになったときです。例えば、向かいの奥さんは専業主婦なのに、ダンナの稼ぎだけで息子を私立の小学校に通わせていると知ってしまったときです。そして自分と同じレベルの暮らしだと信じていた専業主婦のママ友が、「将来のために娘をインターナショナルスクールに入学させるの」と、控えめな声で打ち明けてくれたときです。
それをきっかけに、体の底から爆発しそうな何かが芽生えるのです。自分自身は惨めな思いをしたってかまわない。なんなら毎日、豚コマとモヤシを炒めたので十分。洋服だってユニクロしまむらか、なんならメルカリで上等だ。もちろんダンナにも贅沢はさせない。だけど、絶対に絶対に息子と娘だけには不憫な思いをさせたくない。それなのに……。
きっとインターナショナルスクールに行けば、英語ペラペラになって、それだけでも明るい将来が見えるだろう。大学付属の小学校で大学までエスカレーター式なら、受験勉強に追い立てられることもないから、ゆったりした気持ちで天職を見つけられるんじゃないか、などと抑えきれない焦りを感じます。初めて「親としてのつらさ」を経験し、心に突き刺さります。
この物語には、こういった真帆の将来までは描かれていませんが、きっとこんな気持ちになるだろうと私は想像しました。だって、「他人は他人、自分は自分」なんてことは誰だって耳にタコなのです。それでも心の粟立ちを抑え込めないのが人間なのです。
よその家庭の裕福さの要因が、奥さん自身が開業医だったり、ブティックを経営していて朝から晩まで働き通しだったりといった場合なら、嫉妬心は芽生えず、それどころか尊敬してしまうくらいですが、「ダンナの稼ぎ」となると話は別です。
この奥さん、全然美人じゃないしスタイルもよくないし、いったいどうやってエリートのダンナを捕まえたんだろうなどと、これまでの自分の信条-女を外見だけで判断する男性たちへの怒り、男女は平等であるべき-などをすっかり忘れて、封建的なオヤジのような目で妻たちを品定めしてしまっています。
他人と自分を比べて落ち込む……そのたびに、例の「他人は他人、自分は自分」と呪文を唱えて落ち込みから脱するしか方法はありません。
そして、歳をとってからも、ことあるごとに子育てを思い出し、あのときアレをしてやれなかった。コレをしてやれなかった……そういった、つらい思いが死ぬまで去来します。それは、私の知る限りほとんどの母親に共通することです。しかし、それ自体も人生の醍醐味だった、酸いも甘いも噛み分けた人生だったと捉え直すことで、前向きになるしかありません。
だからといって、タイムマシンに乗って過去に戻れたならば、御曹司を物色して結婚するかといえば、そうもいかないのです。モテ女が非モテ女かの違いだけではありません。たとえ自分がモテ女だったとしても、好きでもない男に手を握られることを想像しただけでもゾッとするのに、いくら金持ちだとか医者だとか御曹司だとか言われたって、好きでもない男と結婚するのは土台無理なのです。好きな男性でなければ本能的な何かが拒絶します。
ですから、好きになった人がたまたま金持ちでエリートで、しかも「なぜか彼の方が私に夢中だったのよ」などという確率の低いラッキーな巡りあわせを願うしかありません。
とはいうものの、エリートとは正反対の、人生のレールから外れた将来性のない貧乏男が魅力的に見えるのも事実です。この物語にも野性味溢れたモテ男が登場します。女性から見てどういった男性が魅力的か、そのことが的確に描かれています。こんな男と結婚したら、将来の苦労が目に見えるといった危険な匂いぷんぷんの男です。ですが、どうにも惹かれてしまう。ダメンズと結婚する女性を、とてもじゃないが非難できません。
この物語を読むと、どう生きたって楽な人生などありえないが、それでも人生は捨てたものではないと思えてきます。そして、登場人物すべてが愛おしくなります。みんな真面目に一生懸命生きていりからです。そして聡明です。
世間に惑わされないというのは、とてもむずかしいことなのかもしれません。確固たる信条を持って、誰の影響も受けないという人は滅多にいないでしょう。でもそれでいいのだと思います。途中で何度も立ち止まり、「他人は他人、自分は自分」と自分に言い聞かせることで、理不尽から来るやるせなさや嫉妬を呑み込んで、翌朝には本来の自分に立ち戻る-それを繰り返して人は生きていくのだと思います。
お金の使い方には、その人の生き方がギュッと詰まっています。財布に入っている三千円をどう使うべきか、その追求は、幸福の追求と同義であることが骨身に染みます。
この本は死ぬまで本棚の片隅に置いておき、自分を見失うたびに再び手に取る。そういった価値のある本です。