「ふたりで老いる楽しさ - 小田島雄志」ベスト・エッセイ2007

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ひとりで老いるのはさびしいことだろう。そう思う。さいわいぼくは、同年生まれの妻といっしょに老いてきたし、これからももっと老いていくだろう。もちろん今まで、老いゆえにとまどうこともあったし、いらだつこともあった。だが七十代に入ってからは、老いることの楽しさも見いだせるようになった。その例を三つほどあげてみよう。今ひとりで老いようとしている人に、再婚のつれあい、学生時代の親友、いや、茶飲み友だちでもいい、同じ時代に貧しさに耐えたり恋愛映画に感動したりした思い出を共有する同年輩の話し相手を身近にもつよう、すすめたいからである。
最初に老いを自覚するのは、電車で席を譲られたときではない。そのときはただびっくりし、「けっこうです、どうもありがとう」などとボソッと言って、そそくさとその場を離れたりするが、腹の中では「まだ席を譲られる歳じゃねえやい」と強がっている。だが自分の気持に体が追いついていけなくなったとき、はっきり老いを自認することになる。
たとえばプラットフォームに入る電車の音を聞いて、若いころなら階段を二段ずつ飛んで駆けあがり、飛び乗ったのに、やがて気持は飛び乗るところまで行ったのに体はやっと階段をのぼりきろうとするところでドアが閉まり、「ああ」と言うことになる。この「ああ」が、年齢の自覚なのである。
それが七十代になると、駆け出す前にはじめからあきらめてしまう。そのとき、ひとりなら若干の切なさ、なさけなさが気持にまじるかもしれないが、たとえば同年齢の妻といっしょだと、妻を思いやっ(たふりをし)て、「次の電車にしよう」と言えるわけである。

それだけでなく、続けて、
「電車にやっとまにあった人はたいていむつかしい顔をして新聞をひろげたりするのに、乗りそこなった人はなぜかニヤッて笑うわね」
「そう言えば貧乏学生時代、階段の途中に一円玉が落ちているのを見つけて、一瞬迷ったけれど、電車を一台見送ってもいいや、と拾ったときは、われながらせこいと思いながらニヤニヤしてしまったね」
といった楽しいばか話を交わすことができる。これも若いころにはなかったゆとりという老いの特典から生まれるものである。
次に老いをいやおうなく意識させられるのは、ど忘れの頻発である。特に、固有名詞、人の顔は思い出せるが、名前は断固出てこようとしない。そのとき、同じころ同じ映画を見歩いたはずの人がそばにいると、
「ほら、あの俳優、なんていったっけ、フランスの裕次郎
ジャン・ギャバン?」
といった対話ができ、しかもこのように一発で当たるとふたりともなんだかハッピーになるからおもしろい。また逆に、
「あの女優ね、えーと、ジ......ジ......」
「ジジ・ジャンメール?」
「じゃなくて、もっと若い......」
「ジュディ-・ガーランド?ジェーン・フォンダ?」
「いや、ほら、ジェラール・フィリップと共演した......」
「『赤と黒』?『肉体の悪魔』?」
「いや、『花咲ける騎士道』だ......」
「ああ、ジーナ・ロロブリジダ?」
などと、正解にたどり着くまで時間がかかるのも楽しめる。やっと正解が出たときの喜びは、テレビのクイズ番組で他人が賞金や賞品を手に入れるのを見るより、はるかに大きい。あたりまえの話だけど。
ぼくの場合、認知症防止のため、わざと妻に仕掛けることもある。このゲームは食後のお茶を飲みながら、散歩の途中、などいつでもどこでもできるので、おすすめである。
最後に、おたがいに発音があやふやになり、耳も遠くなると「言った」・「聞いてない」の言い争いや、言いちがい・聞きちがいのすれちがいが日常茶飯事になってくる。が、この歳になるとそれさえ笑いのタネにすることができるようになる。たとえば、
「そろそろ歯医者に行かなくちゃ」
「なに言ってるの、会社はもう退職したでしょ」
「退屈なんてしてないさ、奥歯が痛いんだよ」
「職場にいたい、って気持はわかるけど、おとなしくうちにいれば?」
「うん、そのうちに入れ歯を入れることになるかもしれん」
といったたぐいのトンチンカン問答をしたあと、聞きちがいとわかったら、「おまえの耳が悪い」、「あなたの口のせいよ」と相手を責めずに、日本語っておもしろいなあ、と笑い飛ばすユーモアのセンスでかわせばいいのである。
若いころには思いもよらなかったことに出会って、年とったなあ、と落ちこみたくなるとき、その気分をはねのけて、なにがなんでも楽しんでやろう、と気持をきり替える必要がある。楽しみは待っていてもこない、こちらから見つけ出すものなのだから。