「手帳四五枚(逗子) - 泉鏡花」岩波文庫鏡花紀行文集 から

 

「手帳四五枚(逗子) - 泉鏡花岩波文庫鏡花紀行文集 から

五日、午後二時二十五分、横須賀行の汽車にて東京発。約、三時間ばかりにて、逗子の停車場[ステエション]に着く。同所、田越のなにがし寺に、神田の従姉[いとこ]、四五人連にて、行きて前[さき]にあり。便[たよ]りてお手軽な家を一軒借りてもらひ、新所帯といふに穏[おだやか]ならず、祖母と弟とともに、自炊して些[ち]と稼がうと云ふつもりなり。
暑さ寒さに、地を選んで住むなど、行過ぎて身にはふさはしからねど、今年の夏のはじめより、胃をいためて、気分あしく、肱枕[ひじまくら]しつ、つ横になることのみ多ければ、土地を移したらば、又気のかはりてなど思ひ立ちたるゆゑにこそ、
田越のその、なにがし寺は、思ひしより停車場の間近なりき。
彼処[かしこ]に着きて、直ちに浴衣に着換へぬ。
当日は最[いと]暑かりしが、聞けば、何処[いずこ]も雨勝にして、前日頃までは気候涼し過ぎ、寺に逗留[とうりゆう]の人たち、袷羽織とり寄せなどしたりしよし。
例年に比して、避暑、海浴の客、未だ極めて少なしとぞ。然[さ]るにても、杜戸、葉山のあたりは知らず、この界隈、殊に海近の家は、早や塞がりて、恰好なるが無しとこそ云へ。可[よ]し、波の音よりは松の風、海には遠くとも仔細はあらずとて、その心構へして家を捜しつ。
晩のお菜[かず]は小鯵の煮たの。
夜に入り、従姉と、いま一人予め同行の立女形[たておやま]と共に、海浜[かいひん]に行きて見る。この人、文字[もんじ]に記せる如く、我が友人[ともだち]の中にも、容貌清洒[ようぼうせいしや]、風采又楚々として、一見恰[あたか]も婦人の如し、因りてひそかにこの称あり。蓋[けだ]し内証[ないしよう]々々のことながら、風葉[ふうよう]さん、春葉[しゆんよう]さんなど、同人間[どうにんかん]、稀に見る処の好男子、名はその体を顕はすや、世帯の事にも馴れたりと聞く。

さて寺の名を記したる提灯を提げて行く。日影の茶屋、養神亭など、灯[ともしび]の影ちらちらと、小坪の岬[さき]真黒に見えて、暗[やみ]の夜の波は、馴れぬ目におどろおどろしく、潮吹く風に、姿も袂[たもと]も、斜めに磯を伝ふ折から、砂[いさご]を噛んで、ざつと一[ひと]のし寄する波に、駒下駄の上を洗はれて、それより跣足[はだし]、毛脛も白し、提灯のあかり漏れて、艶やかに渚に映るさま、身に染むばかり涼しさよ。
小児衆[こどもしゆう]がお馴染の、彼の爪紅[つまべに]の小さき蟹、歩を移すごとに右左に颯[さつ]と退[の]いて、十[とう]と五ツと、数ふるに尽きず。木の葉の乱れ吹くばかりなり。
立帰る途すがら、磯の小松に、秋の虫早や鳴きて、青薄[あおすすき]の露けき中を、蛍蒼[あお]う流れて行く。これを見て、あらあらと立女形の喜びや、ものに慌[あわ]てたる風情なり。男の癖に、余りのことの尋常なれば、顧みて戯[たわむれ]に云つて曰[いわ]く、逗子の蛍は飛びますよと。
その時、先達[せんだち]の従姉、道を失ひ、漁家[ぎよか]に尋ぬ。田越[たごし]へは何[ど]う参ります。こんな体裁[なり]をして、と云ひながら、漁夫[りようし]の女房[かみさん]、腰の布一ツにて、はあ田越[たごえ]へ行くだかねと、因[よ]りて村名[むらな]の田越[たごえ]なることを知る。はじめはたごえ、たごしなど、従姉の住所[ところ]を覚えしなりき。
帰りて本堂の傍[かたわら]なる一間に宿る。床[とこ]が変りたれば、いも寝られず。枕許に小さき灯[ともし]して、懸賞書簡文当月の課題、写真を送る文といふ、編輯[へんしゆう]の選を手つだふ。
かく[かく]て尚ほ眠気もささざれば、鉛筆を削りて懐紙[ふところがみ]に、弟への手紙を認[したた]む。荷造の時心得べき、携帯品の采配なり。一々挙げて数ふる時は、美人が南瓜[とうなす]を食べたいと云ふが如き、奇にして珍なるものなれども、これは天機[てんき]洩すべからず。但[ただ]、当地空気清涼、海、穏[おだやか]也[なり]。青田、せせらぎ、蛍飛び、蟹走る。紫陽花今を盛りにて、桔梗花咲く。お早くおいで。横寺町先生に何[ど]うぞ、と云々。
蜩[ひぐらし]高く鳴く、時計を見れば三時四十三分なり。直ぐ暁の鶏の声。程もあらせず、上人本堂にて陀羅尼[だらに]を誦[じゆ]す、同宿の人たち、一人二人づつ起き出でて、四時皆床を離れたり。

六日、晴、東雲にそぞろ山門を出でて、田越の小橋を渡り、町に出でて巻煙草を買ふ。袂にまつちを入れたり。商賈[しようこ]の家、此処彼処起き出づる。波形の箒の目の立ちたる、細き町筋、どんより靄を籠め、しとしとと露の下りたるに、眠れる家の軒下に朝顔の鉢を並べたる、花の色の瑠璃なるが、ほろほろと咲けるが見ゆ。
停車場[ステエシヨン]に至りて、手紙を弟に送る。その日殊に暑かりし。従姉は行かず、われも行かざりしが、立女形と、また、従姉と同宿の婦人と、三人ばかりの連れにて、海水浴に赴きしが、暮方なりし。立帰るとその婦人、床[ゆか]高き寺の南の縁に打伏して、といきを吐[つ]く。共に行きし人たちも顔の色平[たいら]かならず、打寄りて、見舞へば、浪に足を掬はれて、海に沈み、苦き水もやや多くのみて、人の早く手を取りと扶[たす]けざりせば、活[い]きては帰らざりしとなむ。扨[さて]こそと驚きぬ。やがて、黒髪を解きなどして、蒼ざめたる色も人らしくなりたれば、その恙なかりしを祝し合ひぬ。
夕飯の折からも、蚊遣の中にても、しばらくは唯そのうはさばかりなりし。縁に脱ぎ棄てたる、彼の大形の麦藁帽子、その端のみ、にぎり拳[こぶし]ばかりの波がしらに仄[ほの]見えたるを、我にもあらず救い上げしと、人の語るに、我も泳は知らぬ身なり。危ふかりしさまも見るやうに覚えて、何ともなく手に取れば、紅布の紐、今も雫して、帽はひたとしとりたるに、打返して見る時、きらきらと蒼く微に輝くものあり、樹[こ]の間洩る星の映るかと見れば、非[あら]ず、潮の名残の膚[はだ]寒く燃ゆるなりけり。

それより立女形をともなひ、従姉と三人づれにて、また町に出で、所帯道具を求む、それとても、七輪、土鍋らんぷの類[るい]のみ。
これより前[さき]、人々の厚意にて、桜山という処に、家一軒借りたるなりき。
寺よりは七八町、海までは十町なほ余あるべし。
七日、掃除かたがた立女形と又三人にて、その家に至る。はじめは引返して、昼餉も寺にて調[ととの]ふるつもりなりしに、然[さ]ばかり晴れたる空、ゆうべ九ツごろより掻曇りしが、明くれば鼠色の雲斑々[はんはん]として、田の面[も]を行交う影消え去らず。掃除やや仕[し]すまして、いざ一度立帰らんと云ふ折から、雨はらはらと降出[ふりいだ]しぬ。
やがて止むべしとて待つに、いよいよ降りしきりて小止みすべしとも見えず、かくして縁側にたたずみても、なほ繁吹[しぶき]に袖濡るるほどなりたり。
いづれも駒下駄なり。傘も小さき日傘のみ、かくては果てじ二人して取つて返し、すぐにも昼餉をもたらすべく、その時、夜のものの用意をもすべしといふ。
いとこは女性[によしよう]なり、立女形勿論蒲柳の質、横繁吹烈[はげ]しき雨を衝[つ]かば、道の地蔵堂のあたりにて、鬢[びん]に雫して、あはれ衣[きぬ]の袂や絞らん。乳も膚[はだ]も冷透[ひえとお]らんとて、切に留む。一人駈け出だして、百姓家に雨具を求めしが、山吹の歌ならず、蓑ならで持たずと云ふ。田舎道なればとて、蓑着てはもの狂しくて詮なしや。
我行かんと云ふを、いたはりて、そのまま跣足[はだし]になりて二人出づ。
出窓の、木なほ新しき格子戸より見送れば、青田の畝を、茅屋[かやや]のあちこち、右し左して大雨の中を見えずなりぬ。桜山の麓に唯一人うら淋しくて、部屋の内を立つてあちこちする、縁側に、我が煙草入一つあるのみなり。
そのまま肱[ひじ]を枕にしつつ、あまりのことにうつらうつらして早や三時[みとき]ばかりも経たらんと、帯の間を差覗けば、短針、一を差して、二人が出でしより半時を過ぎざりき。
時やうやく経て、荷車一台、七輪、鍋など、夜具の類[たぐい]などを積みて来れり。
引続いて立女形、また跣足にて急ぎ帰りぬ。用意あればとて足駄など穿[は]き得べきぬかるみかは。頬にかかれる雨を見て、われは唯さしうつむきぬ。彼方[かなた]はものともせず、嘸[さぞ]お腹がすいたでせうねと。
縁側に七輪を据ゑ、相対して御持参の食パンをあぶりながら、雨を聞き聞き、物語しばらく尽きず。

いとこも、今宵は此処に来て、晩のお膳を共にすべければとて、濡れたる衣[きぬ]を乾かしあへず。また外[と]に出でつつ、あとにて水を汲み、米をしらげ、彼処[かしこ]なる青葉の梅の大樹[おおき]の許に、小流[こながれ]に望む井戸流[いどながし]に、篠突く雨の中に、芋の葉暗く暮色を籠めて、女形[おんながた]の美しき姿、いと小さくあはれなり。
と見る時、びたびたと駈けつけて、大変なこと、大変なことと云ふ。蛇や走れると思ふに、然[さ]はなくて、馴れぬ撥釣瓶[はねつるべ]を空[むなしゆ]うして、手を放したれば、梢にひるがえり終んぬとぞ。
行きて見れば切れ凧のそれならで、件[くだん]の梅の青葉の茂みに、撥釣瓶一ツ高く小さくかかれり。
一人井戸の上に立ち、一人石を結[ゆわ]へたるおもしの処を上に撥[は]ねて、飛んで落つる処を停[とど]めんとす。あはやと見るまに取りはづし、手をさしのぶれば足よろめき、浅き井戸の水は深し、雨はいやましに降りしきる。手許は既に暗くなりぬ。
かかる時、濡れたる髪を櫛巻に、裾を高くきりきりと扮[いで]たち、まくり手に番傘を引[ひっ]かたげ、衝[つ]と脊伸[せのび]して木戸より覗き見しが、内にあらずと見て、庭より井戸端にすたすたと駈けつけしは従姉なり。
曰く意気地[いくじ]がないねと、釣瓶もやうやう取り得たり。その番傘颯[さっ]とかざす、さらさらと雨の中に、なほ雨よりはげしく、木の葉の露のしたたる下[もと]に、やがて米をもしらげ果てつ。
我は内に入りて、畏[かしこま]りてその状[さま]を見たるなりけり。
土鍋に煮て御飯も出来たり。浴衣も新しきにかへつ。さて寛[くつろ]ぎて顔を見合せしが、皆笑ひ出しぬ。おもしろや、これも談話[はなし]のたねなりとて
(明治三十五年九月「新小説」)