(巻三十六)佃煮の暗さそれぞれ秋の風(小山玄黙)

(巻三十六)佃煮の暗さそれぞれ秋の風(小山玄黙)

5月6日土曜日

晴れ。風強し。朝家事は自分の洗濯、部屋干し。細君は生協に出掛け、ついでにバラとガーベラを買いて戻る。花屋さんの店長は30がらみのお兄さんであるが、この方が魚屋、八百屋、果物屋のお兄さんではなく、花屋のお兄さんを絵にしたような甘いマスクのマダム受けがよさそうなお兄さんなのである。客の殆んどが婆さんと爺さんで買うのは仏花ばかりの店舗ではなくもう少し華のある店を任せたらどうだろうか。問題を起こすかもしれないが、商売としては面白くなるのではなかろうか。

昼前に生協へ朝食用品を買いに行く。風が強いためか、猫現れず。帰宅して部屋着をTシャツにした。短パンはまだ出さず。

昼飯喰って、一息入れて、瞑想いたす。早く瞑目いたしたい。

瞑想を解いて散歩に出掛けた。風当たりの少ないコースを選び、クロちゃん(不在)、コンちゃん(クネクネ)、トモちゃん(ウキウキ)と猫を巡礼。途中、ローソンでアイスコーヒーを喫す。ローソンは紙カップだ。紙カップだと従業員の一手間が増えるようだ。ファミマは氷を入れたプラスチックカップを保冷ボックスに入れておいて客に取らせるので従業員の手間はかからない。ローソンの紙カップだとレジでアイスコーヒーを注文したときに従業員が紙カップに保冷ボックスの氷を入れて渡してくれる。環境に優しくすると一手間増えるようだ。

帰宅すると細君が「野球、やっるよ。いいねえ、野球は。平和で。」とラジオで野球の実況をしていることを喜んでいる。

英聴は新着の、

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct4y3y

を聞き始めた。

願い事-涅槃寂滅、即死でお願いいたします。地震でもいいんですが、一発圧死でお願いいたします。閉じ込められて、ジワジワと逝くのは避けて通りたい。

猫の巡礼の連想で、

「遍路ー斎藤茂吉岩波文庫“日本近代随筆選”から""

を読み返してみた。遁世したお遍路さんか。

さても猶世を卯の花のかげなれや

遁れて入りし小野の里山(兼好)

「遍路ー斎藤茂吉岩波文庫“日本近代随筆選”から""

那智には勝浦から馬車に乗って行った。昇り口のところに著いたときに豪雨が降って来たので、そこでしばらく休み、すっかり雨装束に準備して滝の方へ上って行った。滝は華厳よりも規模は小さいが、思ったよりも好かった。石畳の道わのぼって行くと僕は息切れがした。

さてこれから船見峠、大雲取を越えて小口の宿まで行こうとするのであるが、僕に行けるかどうかという懸念があるくらいであった。那智権現に参拝し、今度の行程について祈願をした。そこを出て来て、小さい寺の庫裡口(くりぐち)のようなところに、「魚商人門内通行禁」と書いてあり、その側に、「うをうる人とほりぬけならん」と註してあった。

滝見屋というところで、腹をこしらえ、弁当を用意し、先達を雇っていよいよ出発したが、この山越は僕には非常に難儀なものであった。いにしえの「熊野道」であるから、石が敷いてあるが、今は全く荒廃して雑草が道を埋めてしまっている。T君は平家の盛な時の事を話し、清盛が熊野路からすぐに引返したことなども話して呉れた。僕は一足毎に汗を道におとした。それでも、山をのぼりつめて、くだりになろうというところに腰をおろして弁当を食いはじめた。道に溢れて流れている水に口づけて飲んだり、梅干の種を向うの笹薮に投げたりして、出来るだけ長く休む方が楽であった。

そこに一人の遍路が通りかかる。遍路は今日小口の宿を立って那智へ越えるのであるが、今はこういう山道を越える者などは殆ど絶えて、僕等のこの旅行なども寧ろ酔興におもえるのに、遍路は実際ただひとりしてこういう道を歩くのであった。遍路をそこに呼止め、いろいろ話していると、この年老いた遍路は信濃の国諏訪郡のものであった。T君はあの辺の地理に精(くわ)しいので、直ぐ遍路の村を知ることが出来た。併(しか)しこの遍路は一生こうして諸国を遍歴してどこの国で果てるか分からぬというのではなかった。国には妻もあり子もあったが、信心のためにこうして他国の山中をも歩き、今日は那智を参拝して、追々帰国しようというのであるから前途はそう艱難(かんなん)ではなかった。T君は朝鮮飴一切れを出して遍路にやった。遍路はそれを押しいただき、それを食べるかと思うと、胸に懸けてある袋の中に丁寧にしまった。

僕などは、この遍路からたいへん勇気づけられたと謂っていい、そうして遂に大雲取も越えて小口の宿に著いたのであった。実際日本は末世になっても、こういう種類の人間も居るのである。遍路は無論、罪を犯して逃げまわっている者などてはなかった。遍路のはいているゴム(漢字)の足袋を褒めると「どうしまして、これは草鞋よりか倍も草臥れる。ただ草鞋では金が要って敵いましねえから」というのであった。これは大正十四年八月七日のことである。

一夜明けて、僕等は小口の宿を立って小雲取の峰越をし、熊野本宮に出ようというのである。そこでまた先達を新規に雇った。川を渡ったりしてそろそろののぼりになりかけると、細い雨が降って来た。僕等はしばし休んで合羽を身に著はじめた。その時遥向うの峠を人が一人のぼって行くのが見える。やはり此方の道は今でも通る者がいるらしいなどと話合いながら息を切らし切らし上って行った。

三十分もかかって、ようやく一つの坂をのぼりつめるとそこで一段落がつく。そこに一人の遍路が休んでいた。さっきの雨が既にあがっているので遍路は茣蓙(ござ)を敷いてそのうえで刻煙草を吸っていた。見晴らしが好く、雲がしきりに動いている山々も眼下になり、その間を川が流れて、そこの川原に牛のいるのなども見えている。

僕等もそこで暫時休んだ。遍路は昨日のと違って未だ若い青年である。先程見た一人の旅人はこの遍路であったのだから、遍路は彼此三十分も此処に休んで居るのであった。遍路は眼が悪いということを云った。なるほど彼の眼は一眼全く濁り、片方の瞳にも雲がかかっていた。遍路の話を聴くに、もとは大阪の職人であった。相当に腕が利いたので暮しに事を欠くということが無かったのだが、ふと眼を患って殆ど失明するまでなった。そこで慌てて大阪医科大学の治療を乞うたけれども奈何(いか)にも思わしくない、そのうち一眼はつぶれてしまった。それのみではなく、片方の眼もそろそろ見えなくなって来た。然るに、居処不定(きょしょふじょう)の身となり霊場を巡っているう ちに、片方の眼が少しずつ見えるようになって来た。彼は益々神仏にすがって到頭(とうとう)四国の遍路を了(お)えた。その時には眼が余程好く見えるようになった。

その時彼は、もうこれぐらいで沢山である。もうそろそろ信心の方も見きりをつけて浮世の為事(しごと)をして見ようと思ったそうである。そして逡巡しているうちに、眼は二たび霞んで来てもとのようになりかけたそうである。

彼は驚き心を決して二たび遍路の身になってしまった。そして既に数年を経た。きょうは小口の宿を立って熊野の方へ越えようとしているのだと、こういうのであった。

彼はそういう事を事こまかに大阪弁で話した。併し僕は大阪弁を写生することが得手でないから、その儘書くことが出来ない。

遍路は、けれど も現在の状態に安住してはいなかった。若い身空を働きもせず、現世の欲望をも満たそうともせずにいることが残念でならなかった。彼は「いまいましい」という言葉を使った。T君は遍路に五十銭呉れたが遠慮をしながら丁寧にそれをしまった。それから遍路はM君の呉れた紙巻煙草を一本その場で吸った。

僕等は遍路をそこに残して一足先に出発した。一山巡って、も一つ山にさしかかろうとする頃うしろの方で鈴の音が幽かに聞こえた。

「奴も歩き出したね」

「あの奴なかなか面白いね。ぷりぷり云っているところなんか面白いじゃないですか」

「いまいましいなんて云いましたね」

「いまいましくても、遁世の実行家だね。あれだけの生活は加特利(かとりっく)教徒の労働者なんかでは出来ない よ」

「強いられた実行なんですね」

「そうかも知れない。併し観音力にすがるところに盲目的な強味があるとおもいますね。一時流行した覚めた人気にはああいう苦行生活は到底出来ませんよ」

「しかしみんな遁生菩提でも困りますからね」

「そうかも知れない」

僕等は疲れきって熊野本宮に著いたのは午後二時ごろであった。そこで熊野権現に参拝した。熊野川は藍に澄んで目前を流れている。きょうの途中に、山峡からたまたま熊野川が見え出し、発動機船の鋭い音が山にこだまさせながら聞こえていたが、あれも山水に新しい気持を起させた。

この山越は僕にとっても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによった。然も偶然二人の遍路に会って随分と慰安を得た。なぜかというに僕は昨 冬、火難に遭って以来、全く前途に光明を失っていたからである。すなわち当時の僕の感傷主義は、曇った眼一つでとぼとぼと深山幽谷を歩む一人の遍路を忘却し難かったのである。然もそれは近代主義的遍路であったからであろうか、僕自身にもよく分からない。