「河童(抜書) - 芥川竜之介」岩波文庫

 

「河童(抜書) - 芥川竜之介岩波文庫



僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣ものみこめるようになってきました。その中でもいちばん不思議だったのは河童は我々人間のまじめに思うことをおかしがる、同時に我々人間がおかしがることをまじめに思う-こういうとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間が正義とか人道とかいうことをまじめに思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり彼らの滑稽という観念は我々の滑稽という観念と全然標準を異[こと]にしているのでしょう。僕はある時医者のチャックと産児制限の話をしていました。するとチャックは大口をあいて、鼻目金の落ちるほど笑い出しました。僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。なんでもチャックの返事は大体こうだったように覚えています。もっとも多少細かい所は間違っているかもしれません。何しろまだそのころは僕も河童の使う言葉をすっかり理解していなかったのですから。
「しかし両親の都合ばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」
その代わりに我々人間から見れば、実際また河童のお産ぐらい、おかしいものはありません。現に僕はしばらくたってから、バッグの細君のお産をするところをバッグの小屋へ見物に行きました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはりひざをつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水薬[すいやく]でうがいをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしていると見え、こう小声で返事をしました。
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太いガラスの管[かん]を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は水素ガスを抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。