「アゲイン - 木田元」木田元・軽妙酒脱な反哲学 から

「アゲイン - 木田元木田元・軽妙酒脱な反哲学 から

村松友視の小説を原作にした『時代屋の女房』という映画を覚えておいでだろうか。一九八三年の制作。監督は森崎東渡瀬恒彦夏目雅子が主演。
大井三つ叉の交叉点にかかっている歩道橋の螺旋状の階段を降りきったところに、物置小屋のような古道具屋、「時代屋」という屋号の渡瀬恒彦の店がある。その店に、銀色のパラソルをくるくるまわしながらその歩道橋を渡ってふらりと現われ、そのまま住みついてしまうのが夏目雅子。彼女のその後の薄命を知っているから、余計けなげにもはかなげにも見える可憐なかわいらしさが忘れられない。津川雅彦大坂志郎藤木悠初井言栄といった芸達者が脇をかためていた。
大傑作などとは言わないが、妙に心に残る映画なので、テレビで放映されるたびに見ていた。それが、三度目あたりだろうか、時どきバックに流れる音楽のメロディの味わいの深さと、一度だけそれに乗せてワン・フレーズ唄われる歌のうまさに気をとられた。いったい誰が唄っているのだろうかとエンディング・ロールを見ていたら、これがちあきなおみ、歌の題が「アゲイン」。市井の片隅の生活を描いただけのこの映画に、この歌が結構深みを添えているのだ。どうしてもこの歌をフル・コーラスで聴きたくなった。
昔からちあきなおみという歌手は好きだった。なにしろ歌がうまい。歌に深い情感がこもっている。「さだめ川」や「矢切の渡し」など泣きたいくらいいい。この二曲、どうしてかその後細川たかしが唄うようになったが、ちあきなおみの方がずっと味があった。「雨に濡れた慕情」だの「悲しみを拾って」だの「かもめの街」だの、どれもいい。
歌のうまい下手は他人の歌を唄わせてみるとよく分かる。この子くらい、ほかの歌手の歌を唄わせてうまい唄い手はいない。ひところ「スターものまね合戦」といったたぐいの番組を彼女が席巻していたのを覚えておられる方も多いだろう。だが、ものまねだけではない。ひとの歌を完全に自分のものにしてしまうのだ。彼女が唄うと、「港が見える丘」がみごとなブルースになる。私は『ちあきなおみ裕次郎を唄う』というテープをもっているが、これなど絶品。言っちゃ悪いが、裕次郎が唄うよりずっと味がある。彼女の唄う「赤いハンカチ」や「錆びたナイフ」をお聴かせしたいものだ。そうそう、いまネスカフェのCMで、むかし水原弘の唄った「黄昏のビギン」をカヴァ-しているのも彼女である。これも思わずハッとして聴き耳を立ててしまう。
よくレコード屋のおもてに、本ならゾッキ本に当たるゾッキCDやゾッキテープを並べた台が置かれているが、私はあれを見かけると必ずのぞいて、ちあきなおみのテープやCDがあると買ってくる。いろいろなメーカーがいろいろに曲を組み合わせて出していて、大部分はダブっているが、なかに一、二曲他人の歌を唄ったのがまじっている。「夜霧のブルース」や「上海帰りのリル」など。それを聴きたいのだ。だから、レコード、テープ、CDとりまぜて、彼女のものはあらかたもっているのだが、どこにも「アゲイン」は入っていない。
聴けないとなるとますます名曲に思えてきて、なんとしても聴きたくなる。待ったのきかなう性分なので、ひところは仕事を放り出して、銀座・新宿・池袋あたりの目ぼしいレコード屋を歩いて、「アゲイン」の入ったアルバムがないかと探しまわったが、どうしてもみつからない。

ご存知のように、ちあきなおみはご主人が病にたおれてから、世間にはまったく姿を見せなくなった。だが、私同様のファンは多いとみえて、いまだにその歌を集めたCDがいろいろと出されている。昨年の夏前には、とうとうCD二枚組で三五曲入った『ちあきなおみ大全集 黄昏のビギン』というのが出た。題からしネスカフェのCMに便乗したのは明らかだが、むろんこれも買った。だが、これにも「アゲイン」は入っていない。
この歌は私にとってついに幻の名曲に終わるのかとガッカリしていたら、秋口になって、今度はCD六枚組、一一八曲を収録した『ちあきなおみ・これくしょん ねぇ あんた』というのが出た。早速買いこんだから、なんと、これに「アゲイン」が入っているではないか。やっと思いがかない、ほかの曲ともども飽きずに聴いている。やはりいい。
私の友人知人にも、一万四千円近いこの『これくしょん』を買ったのが三人いる。聞けば、この『これくしょん』、四万セットをほぼ売り切ったそう。ちあきなおみには根強いファンがいるのだ。やはりこれを買った一人のNさんなど、ちあきなおみばかり六時間分集めた私製のビデオ・テープ「ちあきなおみ劇場」というのをもっていて、貸してくれた。
ちあきなおみさん、世紀の替わったところで心機一転、それこそもう一度[アゲイン]、あのあでやかな姿を見せ、あのうまい歌を聴かせてくれないだろうか。