(巻三十七)仏壇も炬燵もあるや四畳半(正岡子規)

(巻三十七)仏壇も炬燵もあるや四畳半(正岡子規)

6月1日木曜日

曇り晴れ。先ず動かなくなったダイナブックの10年物の8・1のパソコンを諦めて撤去した。Windowsのメンテナンス終了後も画面が15と大きかったのでAVの鑑賞にもっぱら活用していたが、オペレーションの容量が小さくとにかく遅かった。

朝家事は拭き掃除。これを済ませてから生協の開店に合わせてお買い物に出かけた。細君がラジオで聞きつけたところでは石垣島ではコンビニの棚からパンやカップ麺が消えたとのこと。直ぐに反応する、過敏症の彼奴から雨風対処の買い物を言いつかったわけだ。

で、生協のパンの棚へ参るとこんなにたっぷりとパンが並んでいた。ありがたいことである。言いつかった物のほかに私の備蓄品として豆大福2個、草餅2個を買っておいた。

戻って洗濯、外干し。

昼飯は卵焼きが少し付いた。焼売が2個付いた。旨し。昼飯喰って、一息入れて、少しコチコチしてから、散歩に出かけた。「薄手パジャマの襟が擦りきれているわよ。何かあるといけないから買ってらっしゃい」 とのことでアリオのヨーカ堂へ出かけた。

来年は捨てる約束更衣(中川幸子)

油断すると長袖は五千円を超える。三千円どまりのを探して2着購入。ついでにユニクロへ降りてポケット付のTシャツを探したがこの前特売で買った品物はなかった。今日は飲食せずに退去して図書館に回り2冊借りた。最後に生協で缶酎ハイ3本とつまみを少々買う。これで土曜日までの寝酒は確保した。

猫はクロちゃんと会ったが、ずいぶん他人行儀になってしまった⁉トモちゃんは不在。気温と風向きで居場所を変えるのだが、どこに移ったのか分からない。

猫のゐるところは涼し段ばしご(佐々木邦)

願い事-涅槃寂滅、即死でおしまい。

更衣で語呂合わせで読み返してみた。

「更衣室のマナー - 角田光代」中公文庫 楽しむマナー から

スポーツクラブに入会したばかりなのに、もう足が遠のいているのだと、年若い知人が打ち明けた。ああ、面倒でいかなくなる人っているよね、とうなずいたが、そうではないらしい。彼女曰く「だってみんなあんまりにも大胆だから愕然としちゃって、なんだかいきにくくなって」。更衣室の話らしい。大胆というのはつまり、みんな、乳や尻を出しっぱなしにして歩いたり、髪を乾かしたり、しているということなのだろう。

え、でも、更衣室でしょ?と私は訊いた。ええ、とうなずいて彼女、「でも」と眉間にしわを寄せる。が、でも、のあとが続かない。更衣室は衣類を着脱する場所で、だからすっぽんぽんになるのも詮方ないが、でも。でも、のあとには、恥ずかしい、あられもない、みっともない、見たくない、見せなくない......等々の、言葉にはならぬ思いが続くのであろうと想像する。

裸になるのがみっともない、という気持ちと、肉体的成長は比例する。個人的なたとえを出せば、小学校高学年から急速に体重と身長が増えかつ伸び、高校生あたりでピーク。20代半ばからゆっくりと衰えはじめ、30代半ば過ぎで、その衰えをはっきり自覚する。それとまったく同じに、中学高校では同性にすら裸体を見せるのが恥ずかしかった。20代半ばからだんだんとどうでもよくなって、30代半ばでは温泉でもスポーツクラブでもとにかく衣類着脱を目的とする場ならば、恥ずかしいことなどただのひとつもなくなった。

出るところが出ていない、出なくいいところが出ている等々、個人差はあれど、しかしだれしも同じ裸は裸。だれも他人の裸など見ていない。恥ずかしがってもたついたり、タオルで隠したりする人がいると、何か珍しいものがくっついているのか、金をとらねばもったいないくらい美しいのか、かえって気になりチラチラ見てしまう。そう、隠されれば見たくなるのが人の心理。

高校生のころ、私はたいへんに息苦しさを感じていた。思春期の閉塞感ともいえるが、それは同時に、裸になっていい場所でなれない自意識の故もあったと思う。年齢を重ねてもっともよかったことは、あの自意識のがんじがらめから逃れられたことだ。更衣室で正しく衣類を脱げることは、人を息苦しさから救うのだと、大げさでなく、思う。だから年若い彼女よ、スポーツクラブなんて退会してしまいなさい。あと5年後、体力の衰えも実感できるころ、また新たに入会すればよろしい。そのときには更衣室の「でも」からもきっと解放され、着脱すべき場で着脱することの、まっとうなすがすがしさもきっと味わえるはずである。