(巻三十七)すれ違ふ熊手が語る景気かな(腰山正久)

6月3日土曜日

(巻三十七)すれ違ふ熊手が語る景気かな(腰山正久)

雨、朝6時に届いた区からの通報。

《中川では、上流の埼玉県吉川で氾濫危険水位を超えておりますが、雨のピークも超え、小康状態が続いています。万が一上流部で氾濫しても、本区に氾濫水が到達するまで、時間的猶予がありますので、引き続き、本区から発せられる情報に注意してください、

綾瀬川については、氾濫しても、本区への氾濫水の到達は、想定されていません。

なお、河川の水位が上昇していますので、河川に近づかないようお願いします。》

11時には雨上がる。

やはりルーターの調子が悪いようでひかり電話がプッツンするらしい。で、細君がNTTに電話で相談したら型番を訊かれ、十年物だから交換しましょうということになった。交換品を宅配で送れば明日には着くと云われたが、それでどうこう出来るなら狼狽えはしないのだよ。で、来て貰うほうでお願いした。インターネットの関係はそちらの契約書がないとIDほかが分からないので作業できないという。なんとか見つけ出したが、交換後またパソコンと携帯をWiFiに繋ぎ直さなければならない。面倒だな~。

昼飯喰って、一息入れて、コチコチしたあと、千円床屋に出かけた。午後の開店時間の3分前に到着し開店とともに入店。すぐにもう一人客が入る。一人10分の床屋だから待っても15分だがそれでも、待たずに遣ってもらえて気分はよい。千円床屋でも一言二言の床屋トークはあり、おばちゃんは未明の洪水警報の話を振ってきた。「でもよかったですね、無事に済んで。」とだけ返してあとは双方無言。10分だから寝た振りの芸も要らない。

床屋を終えて隣りのコンビニで110円のアイス珈琲を喫した。外のベンチに座って喫っしようとしたが、まだベンチには水滴がベチョベチョとあり、座れず。

帰りにクロちゃんを訪ねた。今日はなつっこく寄りついてきて首の回りを掻いてくれというそぶりをみせた。猫にも彼奴にもその日の気分というのがあるのだろう。トモちゃんは不在。

願い事-涅槃寂滅、無痛で無意識のうちに瞬時で片付けてください。ジタバタする暇もないうちにおしまいして下さい。

台風が来るとその時は借家でよかったと思う。大体がこの辺りはハザード・マップで真っ赤なところだ。そこの十坪三階建ての戸建てを五千万円で買うのはリスク・アセスメントが甘いような気がする。まっ、借家人の僻みだが。

で、

「借家と持家(後半) - 諸井薫」河出書房新社 男の節目 から

を読み返してみた。

物なくて軽き袂や更衣(高浜虚子)

「借家と持家(後半) - 諸井薫」河出書房新社 男の節目 から

それはさておき、戦後日本は戦前の借家文化から、一気に持家文化に逆転した。

焼跡から奇跡的な経済復興、朝鮮戦争特需をバネに高度成長が日本の産業を戦前以上の規模に巨大化させ、個々の企業の業績は急カーブに右肩上がりを持続し、内部留保もふくれ上がった。

そのあたりから、多くの企業が持家制度を作り、社員に低利、長期弁済の住宅購入資金を貸し付けるのが一つの流行となった。

都営や公団の、エレベーターのないアパートですら、抽選で入れた人は少なく、大多数は木造モルタル二階建、トイレ共用といった私営アパートで、それこそ“兎小屋”的生活に甘んじていたのが、一気に“城持大名”になれたのだ。その名もマンション、しかも区分所有ながら土地付きである。それこそ夢のまた夢だったに違いない。

そしてバブル全盛期、右肩上がりがいつまでも続くという甘い展望と、低金利をいいことに、億ションと呼ばれる分不相応な高級マンションへの住み替えが流行し、そこへ青天の霹靂のような大不況の乱気流に突っ込み、元も子もなくしてレンタル・アパートに逆戻りという、悪夢のような現実に遭遇した話も随分と耳にした。

いや、かりにそんなバブルに浮かされることなく、地道にやってきた人達にとっても、“持家”は、思いも寄らぬツケをつきつけてきた。

考えてみれば当たり前のことなのだが、木造一戸建、コンクリート集合住宅の別なく、家には耐用年数というものがあって、それが過ぎれば建替えるか、大幅に手を加えなければならなくなる。しかもその耐用年数なるもの、コンクリート住宅なら六十年といわれてそれを真に受けているととんでもないことになる。

確かにコンクリートの躯体自体は雨露をしのいでくれるが、給排水設備は悪臭を発し、外壁は見るも無残な廃屋の様相に様変わりしてしまう。もちろんこうなったら売ろうにも買い手はつかず、それに売れたとしても二束三文で、買替え物件の頭金にもならない。

> しかも、買ったのが昭和四十年代の前半、そろそろ三十年経とうとしているわけで、当人も定年、もしくは定年直前で、これからその建替え資金や買替え資金を作ろうにも、手立てがない。第一金融機関のローンの条件は七十歳までに完済というのが普通だ。

となると、排水管からの下水の悪臭に耐え、住人同様、老い朽ちの兆候顕著な古いマンションを“終の棲家”とするしかなくなる。なんのために爪に火をともすようにして営々三十年もローンを払い続けてきたのかと、持って行き場のない忿懣に腹が煮えるのである。

男の住んでいる界隈は、昭和二十年代はまだ原っぱや畑があちこちにあって、家はそんなに建っていなかった。

男のところもそうだが、男の家の向う三軒両隣は、いずれも昭和三十年代半ばに建った木造一戸建で、土地は四十坪ばかりだ。だが昭和三十年代に家を建てたということは、その当主は若くしても六十代半ば、平均的には七十代半ば過ぎだから、ほとんどの家が、すでに子供達は別家し、老夫婦二人暮しである。

人様の内実を窺うべくもないが、どうやら退職金の残りプラス年金で暮しを立てている様子だ。そうではないかと思う根拠は、築後三十五年、しかもその当時は建材もたいしたものではなかったから傷みも早く、築後五十年といわれてもさもあらんという老朽ぶりだが、それに手を加えようという形跡がまったく見えないところだ。

あの頃建った家がすぐそれと知れるのは、コンクリートブロックを積んだ塀が当時の流行りで、それがみすぼらしく変色している点で共通しているということである。

男の家の前の道路に面して横並びに六軒ほどの似たような大きさの家が並んでいるが、その家から出入りするのは年寄りばかりで、男は自分のことを棚に上げて、この通りをひそかに“黄昏通り”と呼んでいる。

その六軒の古びた家の中で、男のところだけ建替えて新しく、それが妙に際立つが、男にはかえって肩身が狭い。

なにしろ、通気性が悪いということもあって、北向きの風呂場と便所の傷みがひどく、とくに風呂は白アリにやられて、このまま放っておくと家全体が駄目になる可能性を指摘され、前後の見境なく建替えに踏み切ったというわけだ。いまからざっと六年前、還暦寸前である。残りの人生を考えれば無謀の挙にちがいなく、現役引退後十年に及んでの月々三十万余りの建築資金の分割返済にしても、裏付けあってのことではない。

しかも、家を建直したりするととかくその家の主の身によからぬことが起きる、という言い伝えもある。

男はそれらのすべてに目をつむって強行したが、案の定、家が出来上がった翌年の夏、突然大量吐血して胃の切除手術を受ける羽目になった。その手術自体はうまくいき、ひと月あまりで退院出来たが、男の気持の張りは消えた。まだまだ頑張り続けて、もうひと花もふた花も咲かせてやるんだ、という気力がガスが抜けるように雲散霧消してしまったのだ。

つまり、これから先いつお迎えがきても不思議はないのだから、そのつもりで生きなければ、という思いが、嘘のように気持を退嬰的にしてしまうのである。

そういえば、男の兄も数えの厄年で急性心不全で死んだが、このときも、家を改築した直後たった。

男は、そんな迷信めいた符合をまるまる信じるつもりはなかったが、家の改築が男の一生の重要な節目であることを、しかと思い知らされたものだった。

戦前のように借家が普通だったら、ヤドカリが自分の体の変化に合わせて次々と貝を変えていくように、家を移り住んでいけば、こうした節目で悩むこともないのだろうが、下手にケチな家を所有してしまったせいで、ひとつ歯車が狂うと、その家に人生を振り回されることになりかねない。

男は、その“黄昏通り”を犬を連れて歩きながら、一軒だけ白々しく新しいわが家から目をそむけ、古びの増すばかりの家並みの、見慣れた落着きの中で、ひっそりと年相応に生きている老夫婦の無理のなさに、ふと羨望を覚えるのである。