(巻三十七)怪しきは公家の早足枯野道(奥田筆子)

6月12日月曜日

(巻三十七)怪しきは公家の早足枯野道(奥田筆子)

小雨。朝家事は特になし。昼飯喰って、一息入れて、コチコチして散歩には出かけず。雨は降ったり止んだり。

夜の11時、缶酎ハイを舐めつつ雨音を聞く。

「煎餅の尽きて気の付く夏の雨」

願い事-涅槃寂滅、ポックリ御陀仏。

本も読むし、家事も手伝い、散歩もいたす。ほかに暇潰しに携帯で麻雀をよくやる。半荘を10分から15分で上がる。長くはやらない。半荘で止めることにしていて、続けてはやらない。初級にセットしてあるがトップ率は50%を少し切るあたりだ。実物の牌をさわったことはないのだから、賭けたことなどない。役や点数もあまりよく分からない。傾向ははっきりし過ぎていてタンヤオに走る。対になっていてもドラでなければさっさと切る。だから待ちは3-6、4-7、5-8、ぱかり。人間相手だったらすぐにかわされつしまうだろう。ゲーム、少なくとも今遊んでいる無料ソフトは傾向の蓄積はしていないようだが、帰納法的に処理されたらまず勝てまい。

暇潰しと気分転換にやるねだが、場合に依っては脳の働き、心の動きを拘束するのに使う。嫌なニュースや顔本の記事が引き金になってろくでもない思考のスパイラルに嵌まることがある。その時は麻雀でその思考を妨害させている。ある意味で“薬物”だ。

携帯で将棋も出来るが、将棋は理詰めで偶然の要素がない。下手は絶対に勝てないし、あの追い込まれていく息苦しさはろくでもない思考のスパイラルの辛さと変わらない。私には“薬”にならないので将棋には手を出していない。

麻雀界も厳しいのだろうが、最近も将棋界の厳しさが伝えられていた。差しでの勝負だからそれが際立つなあ。

で、

「中高年はつらいよ - 木村義徳(将棋八段)」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

を読み返してみた。

甚平にとどめの駒を打たれけり(中澤昭一)

「中高年はつらいよ - 木村義徳(将棋八段)」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

御存知の方も多いと思うが、いまプロ将棋界は青少年に突出されて大変になっている。七大タイトルのうち六つが青年の手中にあり、体制側にとっても中原名人(四十歳)にとっても唯一の名人位のタイトルに、谷川青年(二十六歳)が挑戦中。中原は懸命に戦ったはずだが、これを書いている現在一勝三敗。確保のためには残る三局を全勝しなければならず、青年諸君に制覇されそう。会長・理事は中高年が制しているが、勝負の世界では、体制の権威が保ちにくい。

しかもその青年諸君も少年達に追われている。昨年度の勝率トップは羽生四段(当時十七歳)。五〇勝十一敗(勝率八割二分)だし、トップ連にも勝っているから、文句のつけようがない。

同じような少年が数人おり、並の八、九段では歯が立たない。段は半分、歳は三分の一で敵わないのだから立つ瀬がない。「われわれは何をしていたのだろう」と深刻に同輩から聞かれ、「弱い者同士で切磋琢磨していたのでしょう」と答えたこともある。また、ある評論家は、「少年達にこんなに勝たれては、将棋が底の浅いものと思われてしまう」。

まもなく青年のみでタイトルが争われるであろう。谷川は現在二つ持っており、名人位を得ると三つになる。よって、大山・中原に続いて谷川による棋界統一期待もある。英雄待望論というのか、ファンの中には統一期待がなお根強い。が、統一という言葉の定義を甘くしなければなるまい。例えば、七つのうち四つを一時的に獲得することはできよう。が、四年間維持することはほとんど不可能と思う。筆者の定義は四つを四年間なので、取ったり取られたりの戦国時代が延々と続く、とも予想している。昔からトップ連は紙一枚の差と言うが、今はレベルが上って〇・一枚の差になったようだから。

そして、中原が名人位を手放したら、数年前と違ってもう奪還は困難だろう。他のタイトルもむずかしそう。中原でさえこの有様なのだから、中高年は総退却に入ったことになり、まことにつらい。お隣りのプロ囲碁界は体制の権威がビクともしていないのに、どうしてプロ将棋界がこうなってしまったのだろう。

まず、日本の高度成長があった。つれてレジャー時代が始まり、その末端の将棋もブームに近く、ファンが急増した。四十年代のことらしい。ファンの数がふえると、そのレベルも上る。現在のアマトップはプロの中堅に接近し、ほかの世界と同じぐらいらしい。中にボランティアで少年に手ほどきをする人達が続出する。手ほどきの人のレベルが高いから、優秀な少年達が育ち、プロをめざす。

また、ファン急増のおかげで、プロの社会的地位も上ったから、両親も反対しない。否、積極的にすすめる。ちなみに、昭和三十七年生まれの谷川少年は五歳の時に将棋を憶え、小学校三年の時に、「将棋の名人になりたい」と綴り方に書いている。

プロ側もファンが増えたおかげで増収入となり、人員増加が可能になる。各主催紙が掲載料を値上げしてくれた。プロ将棋界では三段以下を奨励会(研究生)と言うが、ここに優秀な(将棋の)少年が多数集まり、互いに切磋琢磨して、さらに優秀な者のみが卒業する。

手ほどきがわるいために今の少年ほどではなく、また少数で切磋琢磨していた三十年前の卒業生より優秀なのは当然で、それが技術の進歩というものだろう。逆に、三十年前ならプロになれたレベルなのに、今だからなれないという青少年のなんと多いこと。隆盛の影の部分と言えよう。ほかの世界でも、高技術・高知識の時代に入っているので日本の社会問題と言えそう。

なお、「トシをとって弱くなった」とアマプロ中高年はよく言う。「ワシの若い頃は強かった」とも言う。そう思えばいくらかは気持はおさまるが、相手も弱かったから通用していたにすぎまい。最近は相手が強くなって勝ちにくくなったのだろう。「環境がわるかった」と主張した方がよいはずなのに、なぜか「強かった」と頑張る。これはもう喜劇だ。

要するに数が質を高めたのである。スポーツの世界では常識だそうだが、底辺が拡がるとピラミッドの頂点が高くなる。将棋界でもファンが増加して、プロのレベルをアップさせたのだ。アップのできない中高年がアップアップというわけである。

以上がプロ将棋界の現状報告だが、プロ囲碁界とは顕著に違う。同じ日本の社会にあるのが不思議なくらいだ。が、紙数もちょうどだし、さしさわりもある。