「井月[せいげつ] - 石川淳」ちくま文庫怠けものの話から

 

「井月[せいげつ] - 石川淳ちくま文庫怠けものの話から



井月[せいげつ]のことは、つとに昭和五年刊、下島勲、高津才次郎両氏の編に係る井月全集一冊においてほとんどその大体をつくしているようであるちかごろ、「科野」昭和三十一年3号より8号まで、高津才次郎氏は井月全集拾遺[しゆうい]として発句、連句、日記、書簡、および雑文の編にもれたものを掲げている。また「みすず」昭和三十一年一月号より毎号にわたって、宮脇昌三氏は井月の日記の世に知られざるものを載せつづけている。井月についてのわたしの文献的知識は右にあげた資料の外には出ない。ただ、知識はともかくとして、わたしはこの住むところをもたない俳諧師がついに落ちこんで行った土地を、終焉に至るざっと三十年のあいだ特殊な仕方をもって生活した現場を、ほんの片はしにもせよ、自分の足でたしかめたいという好奇心をもった。私が秋ふかい信濃伊那谷をめぐったのは、行きずりの旅人という資格においてではあったが、どこかの道のほとりで井月のまぼろし風狂の袖をすり合せたのかもしれなかった。
伊那というところは、その土地のすべてがもと農村であった。江戸のむかし、このあたりは政治的にこまかく区分されて、一部は天領すなわち代官所の支配に、一部は旗本知行所の支配に
まかされていたが、概ねは高遠藩に属した。内藤氏、三万二千石。東西に連峰を控えて、地は天竜川に沿ってひろがり、よく米を産する。伊那節の文句にいうように、米は権兵衛峠を越えて西の方木曾に送られた。そういっても、農村の生活がゆたかであったということではない。農民は米をつくるが、その食とするところは米ではなくて、粟、稗また蕎麦であった。名物の蕎麦の由来にも、農民の窮乏の歴史が薬味をきかせているようである。実状は伊那節のようににぎやかなものではない。藩の台所もまた貧棒[びんぼう]大名の例にもれなかった。シリトリの文句に、内藤様は下[さが]り藤という。下り藤は定紋[じようもん]である。この文句は転じて手許不如意[てもとひによい]のこころとなり、裾にオカザリが下り藤と聞きなされた。
地はすでに寒冷、村またすでに富まない。ここの農家は多く農一本にいそしみ、副業としては蚕を飼うか、麻をつくるか、その間にあきない店が点在して、つくり酒屋のごときはまれであったという。しかるに、幕末から明治のはじめにかけて、奇妙なことに、この伊那谷にはいささか俳諧の風がおこった。その系譜をつまびらかにしないが、俳諧の家はすなわち農耕または商売の家である。富まないとはいっても、好める道ならば、旅まわりの俳諧師に一夜の宿を貸して、手づくりのどぶろくをのませるぐらいのことはしたのだろう。柳の家井月という風来坊が、いかなる因縁に引かされてか、ふらふらと舞いこんで来るにはあつらえむきの土地からであった。

 

(続く)



何処やらに鶴の声きく霞かな 井月
柳の家井月、うまれは越後国長岡という推定のほかには、その素姓[すじよう]についてなにも知られていない。本名、井上克三。これは某人に宛てた書簡の中に当人がそう書いているのだから、たぶんそうなのだろう。もと武家ともいう。年わかくして、仔細あって郷里を出て江戸にのぼったという。その出郷の事情としてつたえられるもののごときは、すべて揣摩臆測[しまおくそく](註:自己の心をもって他の心をおしはかること。)、信ずべからず。江戸にのぼったのち、さらに諸国をさすらい、足跡は上方にも及んだという。この上方というのは、どうか。なるほど井月の俳諧の中には、上方の名所とか堂上のことなんぞを詠みこんだものはあるが、能因の白河の関をひくまでなく、それしきの細工は居ながらにしていとやすい。そして、そういう細工物の句では、井月はいつも不束[ふつつか]である。しかし、井月の行ったさきはどこでもよいだろう。これは考証の箸にかかるようなやつではない。また別号もいくつかあるが、仮名実名、すべて問うところでない。井月は単に井月で十分である。その句に、妻持ちしこともありしを着衣始とあるをもって、妻帯の経験の有無について臆測されるが、これもいらざる詮議だてか。来歴不明、さっぱりしたものである。当人がおのれの身の上については毫末[ごうまつ]も語ることを好まなかったというのだから、後世のがわざわざ証拠不十分の素姓来歴をこしらえあげて、そこに当人の身柄を押しこめるにもおよぶまい。ただ、片雲の風にさそわれ漂泊の念やまず……この芭蕉の一念は、はるかに年をへだてて、田舎わたらいにおとろえながらも、強弩[きようど]の末(註:勢いがあったものが衰えること。)、なお見るかげもない井月のこころをつらぬいていたようである。そして、井月の俳諧には、越後なまりぬもせよ、信濃なまりにもせよ、ちとの蕉風の遺響[いきよう]をとどめていることは、後世の耳にとって珍重であった。われわれの井月は、そのさすらいのすがたを伊那谷にあらわしたとき、はじめてこの世にうまれたとおもっておけばよい。ふりかえれば、「鶴の声きく霞」しか見えない。おのれの来歴の一切をみずから掻き消した生活上の手ぎわにかけては、この風来坊、田舎俳諧の口ぶりよりもあざやかであった。
黒羽二重紋附の小袖に、白小倉の袴、菅の深編笠をかぶり、木刀をさしていたとやら。これがつたえられるところの、はじめて伊那谷にあらわれた当時の井月の扮装であった。高津才次郎氏の考勘[こうかん]によれば、その年代は文献上では安政五年よりまえにはさかのぼれないようである。ときに、井月三十七歳。その後、没年の明治二十年(六十六歳)まで、某年北信にあそんだことはあったが、つい刎[は]ねもどって、井月は伊那谷の底に沈んだまま浮きあがらない。

 

落栗の座を定めるや窪溜り 井月

クボダマリとは、土地のへこんだところをいう。このことばは今日でもなおおこなわれている。右は明治十八年、ある事情のもとに、井月が美篶[みすず]村末広の塩原家に入籍して、塩原清助と名のったときの什[じゆう](註:詩篇)である。入籍とはいっても、ほんの名ばかり形ばかりのもので、ときに六十四歳の井月がようやく一戸をかまえたということではない。ちなみに、当時の塩原家の当主は梅関[ばいかん]と号して、これも俳諧の友であった。
述懐
今の世に拾う人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらん よし貞[さだ]
よし貞とは井月の和歌の名である。いつごろの詠[えい]か知らないが、落栗という意識はつねに当人の身に添っていたかと見える。井月は伊那谷に草庵をむすびたいというはなかい念願をもっていたそうである。しかし、この人生の落栗がころがって行くさきには、死のクボダマリしか待っていなかった。
井月は伊那谷にとってはキタレモノ(外来者)の、さすらいびとであった。いささか俳諧のゆかりがあって、ひとを泊め酒を供しうるほどの家には、ここに三日、かなたに五日と、転転としてあるく。吟遊詩人。いや、浮草の寄辺さだめぬ食客である。食客一本で世にふること約三十年。よくつづいたものである。これがつづきえたのは結構な世の中であった。しかし、そう結構なはなしばかりも無い。前述のように井月の没年は明治二十年に係るのだから、その約三十年の、あとの二十年はすなわち明治というあたらしい世界になる。もともとゆたかならざる谷底の土にまで、このどんでんがえしの世界の変化はいつか天竜川の水のようにしみこんで来たことだろう。井月にしても、いつまでも黒羽二重紋附の小袖を着こんでいられるはずがなかった。
故下島空谷翁は伊那谷のうちにうまれて、幼少のみぎり、家に出入した老井月のすがたを見知っていた。明治九年から十五六年にかけてのことという。ときに井月五十五歳から六十一二歳。翁の記すところによれば、井月は痩せて、せい高く、禿頭無髯[とくとうむぜん]、眉毛うすく、目は切れながのヤブニラミ、身につけているといえば、ひとが着せてくれるものをそのまま着たなり、肩には小さい古行李[ふるごうり]とよごれた風呂敷包とを両掛[りようがけ]にして、ときには瓢箪を腰にぶらさげていた。そして、その瓢箪が酒をもってみたされたときには、千両、千両と、口ぐせにいった。なにをいうにも、口数すくなく、舌がもつれて、聞きとりにくい。その動作形容をあらわすのに、翁はトボトボ、グズグズ、ヒョロヒョロということばを使っている。このトボトボのグズグズは、昼でも行きたたりに伏し、夜は野宿もする。シラミはたかり、ヒゼンは病む。酒は好んだが、すぐ泥酔して、寝小便さえする。どこに行っても鼻つまみの、きらわれものであった。このとき、コジキ井月、シラミ井月の名は一郷に知れわたった。

 

文明開化
春の日やどの児の顔も墨だらけ 井月
けだし、こどもの手習の光景である。こどもを墨だらけにしたのとおなじ文明開化は、井月をシラミだらけにするという衛生上の作用をしたようである。文明の側から見れば、当然の成行だろう。井月の生活の仕方はもとから文明の外にあった。その異様なすがたが白日のもとにさらされたとき、こどもは石を投げてこれを打ち、犬までがたけだけしくこれに吠えついた。犬もまた文明の側に参加する権利をもったらしい。
しかし、井月はついぞ怒を色にあらわしたことはなかったそうである。またついぞ婦女子にたわむれることもなかったそうである。そして、いかなる古袴にしても、袴だけはつけていたという。これがこの老俳諧師の最後の礼法であった。その俳諧仲間の句に、明治十八年旧暦八月十六日、「やせ客人井月来るに付」として、
袴着た乞食まよう十六夜 梅月
月光のもとに袴をつけた乞食のすがたは、おのずから蕉風の骨法という見立になっているのかもしれない。そういっても、コジキ井月シラミ井月という形態が芭蕉の末裔の必然に落ちこむべき像であるはずは無い。そこまでかたよって見ては、たれよりも芭蕉が迷惑する。また井月が芭蕉の隔世の弟子ならば、井月も迷惑するだろう。芭蕉に蚤虱[のみしらみ]の句があるにもせよ、シラミが蕉門のオツカワシメではない。蛇足をつけていえば、井月がシラミにとっ憑[つ]いたと考えるよりは、やっぱしシラミが井月にとっ憑いたとおだやかに考えたほうが文明側の論理である。しかし、おもえば、このシラミ井月というやつ、どうもいくらかは芭蕉に迷惑をかけたやつであった。
伊那谷の風来坊の生活がそれでもよく何十年という時間に堪えることをえたのは、ひとからめぐまれた酒のせいではなくて、そのこころいきにおいて、トボトボのグズグズながら、遠く蕉風の片雲にぶらさがっていたからにちがいない。風来坊はあえぎながら、俳諧という水をがぶがぶとのんで、わずかに息をついている。このとき、芭蕉の幻住庵[げんじゆうあん]の記という文章は井月にとってこの世にただ一つの経典であった。伊那谷の某家に井月の書いた幻住庵の記を蔵しているそうである。わたしはしたしく見るに至らなかったが、これは井月が酒を一杯のみ二杯のみしながら、そらで、一字一画のあやまりもなく、筆をすすめたものという。墨蹟もまた特色あるものと聞きおよぶ。
井月の発句にも墨蹟にもムラがおおい。附合[つけあい]にもときに巧拙がある。しかし、その全体を見わたせば、蕉風の流の林泉にさざなみをあげた跡がうかがわれる。
たとえば、

旅人の笠の上飛ぶ小蝶かな 春水
 水に埃[ほこ]りのみゆるうららか 井月

残る蚊や汚れの眼立ひとつ衣 三ツ丸   
 簾[すだれ]の向を替るゆう月 井月

何かなと慰め兼[かね]て草艸紙[くさぞうし] 富哉
 うたぐりはれぬ宵の立聞 井月

風呂に入[いる]までは頭巾を放し兼[かね] 歌雄
 越[こし]の兎の毛も替[かわ]るなり 井月

心よき水の飲み場やさし柳 霞松
 雁の帰らぬうちに乙鳥 井月

春の日、ひさごなんぞが旅まわりにおちぶれると、こういう呼吸になりさがるのかもしれない。いや、伊那谷の片ほとりにもなおこの調のとどまったことを珍重するほうが妥当だろう。ちなみに、井月の附けぶりすこぶる速く、句はすらすらと出たという。これはさすがに犬に吠えつかれるすがたには似なかったようである。
井月の俳諧のあらまし、また風来坊の行実、性癖、言語、軼事[いつじ](註:広く世に知られていない事柄)のたぐいは、すべて冒頭にあげた資料の中にくわしい。好事[こうず]のひとはただちに就[つ]いて見ればよい。先人がとうのむかしに書いていることを、わたしがここで透[す]きうつしに書きとって示すにもおよばぬだろう。いや、じつを申せば、めんどうくさい。そこで、井月についての秀句鑑賞というさかしらは幸便にとりやめにしておく。
そう、あやうく井月の死にざまを書きおとすところであった。これは雑做[ぞうさ]もない。六十六歳の二月、風来坊は糞[くそ]まみれの行きだおれ、道に捨てられたも同然のすがたで、つぶれたようにくたばった。けだし、有終の美である。風来坊の身柄を最後に引きとったのは枯田[かれた]の中の道であった。つねにつくるところの句句、みな辞世。そういっても、辞世としてつたえられるものに、
涅槃会[ねはんえ]に一日後[おく]るる別れ哉 井月
あるいはいう。
闇[くら]き夜も花の明りや西の旅 井月

 



わたしがはじめて見た井月の真蹟[しんせき]というものは自画自賛の一幅[いつぷく]であった。これは伊那の宮脇昌三さんが客舎に持参して示されたものである。画は淡彩[たんさい]、官女がうしろむきなすわって、竹箒[たけほうき]かなにかをさかさに立てたように垂れた髪の、途中に檜扇[ひおおぎ]が引っかかっている。つまり、向う側にまわって見れば、官女は扇で口もとをかくしているというふぜいなのだろう。まあ百人一首の歌がるたにかいてあるような図柄である。筆つきはたどたどしい。しろうとにしてもヘタのほうである。そして、賛の句に、
掛香[かけごう]や扇は顔の玉すたれ 井月
それに柳の家の印がおしてある。句も書もいうにたりない。とくに句は画に即[つ]きすぎていて、賛としておもしろからず。こころえが無いようにさえ見える。しかし、わたしはこのつまらぬ画とつまらぬ句とをながめながら、井月に対して気やすさをおぼえて来た。見くびったということではない。初対面で打ちとけたということになる。これは尋常の風流人が床の間をあてにして、それほどの腕もないのに、硯のことまでやかましくいって、したり顔に筆をとったものとはちがう。コジキ井月は床の間とも、風流人とも、一般に書画骨董の雰囲気なんぞとは完全に縁の無い風来坊であった。床の間界隈では、どこに行ってもキタレモノである。キタレモノは二三日居候をしたさきの家で、夏ならば縁側、冬ならば炉ばたか、すすめられるままに、あるいは気のむくままに、ありあわせの筆墨をもって、ありあわせの紙になにかのたくる。のたくったものは、そなわち捨てたものである。出来不出来があったとしても、なにをいうことがあろう。当人にとっては、一杯の焼酎の酔の、千両千両なるに如[し]くまい。これを取りあげて文房の清玩[せいがん](註:鑑賞すべき物)とするのは、後人の浮気である。わたしは浮気者の目をもって風来坊が捨てたものをあとから批評しようとはおもわない。ちなみに、井月が書画に使っている紙にはあまりよいものは無い。ほとんど障子紙に似たようなたちのものである。げんに、美篶[みすず]村では障子紙をつくっているのだから、それを使ったのもあもしれない。
井月の書のほうで見るべきものの例として、前述の幻住庵の記のほかに、富県[とみがた]村南福地の日枝神社の奉納額があげられている。これは伊那谷のひとびとの作句を井月が選んで額に書きつらねたものである。この揮毫のとき、井月は酒をのみながら、一句また一句と書き、一杯また一杯とのみ、やがて酔いたおれて、のこらず書きあげるまでには八日かかったそうである。わたしはそれを見に行った。いや、見るつもりで行った。
ジープも通らぬほそい道の草むらをわけて行くと、たちまち木立がひらけて、そこが日枝神社の境内になる。その空地に堂が立っている。間口が広い、がらんとした建物で、土地では単に堂と呼ぶ。ここを舞台に芝居をしたこともあるそうだが、そのおりには空地すなわち見物席となったはずである。奉納額はもと堂の棟にかかっていたという。堂はかなり大きいのだから、額もまたしたがって大きいものだろう。しかし、今日では額は拝殿に納められているという。堂のまえに、空地をへだてて、小さな丘があり、その上に小さい社が見える。それが拝殿であった。石段をのぼって、拝殿の前に立つと、格子がしまっていて、錠[じよう]がおろしてある。格子をすかしてのぞくと、壁ぎわに寄せて、額らしきものの掛けてあるのがみとめられた。夕方の薄あかりでは、細字をもって書きつらねた句のかずかずは読みわけがたい。わずかに、奉献の二字の大きく書いてあるのが見えた。鍵をあけて内にはいればよいのだが、その鍵がない。問いあわせると、鍵をあずかっている村のひとが野らに出ているので、どこに鍵があるか判らないという。この返事は野趣[やしゆ]があってわるくない。わたしは奉献の二字を見ただけで満足した。遠目ながら、この二字はよく書けていた。

おなじ富県村の貝沼[かいぬま]に、旧家埋橋[うずはし]氏がある。井月はこの家にもよく来たというはなしで、そこで示された遺墨は短冊二枚、書一幅であった。短冊のうち一枚は
煩悩の闇路[やみじ]も地蔵祭りかな 井月
この字はひどくまずい。悩という字はくずして書いてあり、扁[へん]は月と見えたが、しばらく心扁にしておく。なお祭、緑、盛、埃、木遣というような名詞の下にわざわざ「り」の字を添えるのは、井月の癖か。ちなみに、地蔵祭は一に地蔵盆という。縁日の七月二十四日に石地蔵なんぞを供養する行事であるが、富県村にはそのならわしが無いと聞いた。
他の一枚は、弓によせて蚕を寿[ことほ]くと題して、
おもう図を外さね腕に仇矢[あだや]なく中[あた]る蚕の運のつよ弓 柳の家
この字もまたまずい。図という字の草体もくずし方があやしい。そして、この狂体の歌は字よりもなおまずい。どうしてこうヘタクソな歌をつくったものか。おもうに、こういう歌を器用に詠んでみせるような才能は、井月には無かったのだろう。しかし、このおなじ歌を書いた短冊はこのあたりのあちこちにあるという。蚕を寿くという題が農家のよろこぶところとなったのでもあろう。
なお埋橋家の短冊帖には、このほかに、伊那谷のひとびとの句が出ている。その中の一枚。
逞[たく]ましき夜の明[あけ]ぶりや稲の花 霞松
タクマシキとことばの用例として、これを掲げる。霞松は河南[かなみ]村押出[おしだし]の人、井月に末期の水、いや、焼酎をのませた俳諧の友であった。
さて、井月の書幅というのは、井月全集に「石の讃[さん]」と題をつけて収めてある文を半折[はんせつ]に書下したものである。ただし、これには右の題は無い。みじかいものだから、その文を左にうつす。

世に千里の馬は有[あれ]ども伯楽なしとかや。卞[べんか]和が玉も三代にしてようやく光りをあらわし。貝沼の里埋橋氏に二ツな珍石あり。その形一ツは丸く一ツは方なり。水は方円の器に従い人は善悪の友によるとの諺も一大事也。倩[つらつら]眺めても名のつかぬ所こそ貴し。時をまってその徳を失う事なかれ。昔漢土に温涼[おんりよう]盞[さん](註:さかずき)あり。冬の日酒を酌ば温く夏の日酒を入ば涼しとから。この石手に採[とれ]は自然と冷なり。
石菖[せきしよう]やいつの世よりの石の肌 柳の家

 

文中、全集では「貝沼の里」とある上に富県の二字を冠しているが、けだし誤である。ただ、これは仮名まじりの文なのに、落款と関防と二つまで印をおしてあるのは、いらざることであった。しかし、文も書も、この一幅はまんざらでない。文はちとの才あり、またいささか書巻の気がある。井月は一斎点をもって孝経を講じたというはなしがつたえられているから、すこしは漢籍を読むことを解したのだろう。そして、この字はよほど丁寧に書いたとみえて、さきの短冊のものには似ず、風趣なしとしない。おそらく、かの幻住庵の記とか奉納額なんぞの字は、これとおなじように、入念に書いたものにちがいない。井月はもともと達筆ではなさそうだから、匆卒[そうそつ](註:急ぐこと)に書きながして、なお字に味があるというまでには至らなかったようである。ちなみに、芥川龍之介は井月全集の跋[ばつ]の中に、幻住庵の記における筆蹟をよろこんで、書技入神と評している。幻住庵の記の筆蹟は、わたしも図版によってそのおもむきをうかがったが、なるほど一筆一盞、こころをこめた跡はしのばれる。ただし、入神とまではいわぬが花か。トボトボのグズグズにしてはと、目をみはるところに花があるだろう。

 

美篶[みすず]村末広の塩原家は、ほんの名ばかりにもせよ、井月が入籍したところである。また枯田の中にたおれた風来坊が、ひとの手にはこばれと来て、最後の息をひきとったところでもある。今日の当主は井月の友であった梅関の孫にあたる。わたしはそのもとをおとずれた。いちめんの田畑の中にあって、むかしながらの農家のつくりの、くろぐろと煤けている。そこに遺品と遺墨。遺品のほうは矢立と筆との二つに尽きたが、遺墨はなおいくつか存していた。
自画自賛一幅。
鳥羽へ来てなしなき鶉[うずら]聞きにけり 井月画賛
たしなきとは、今もおこなわれている方言タシナイである。もののとぼしいことをいう。井月が某人に宛てた尺牘[せきとく]の中に「全く金銭のたしなき故とこそ」という文句が見える。画は直衣[のうい]に烏帽子[えぼし]をつけた官人の淡彩坐像である。これも歌がるたの画のたぐいであった。わたしの見た井月の画は、さきの官女とこの官人と、二つしかない。画はその得意とするところではなかった。
発句一幅。
ほととぎす旅なれ衣ぬく日かな 井月
おなじく一幅。二句。
苧環[おだまき]をくり懸てあり梅の宿 井月
淡雪や橋の袂の瀬田の茶屋 井月
おなじく一幅。二句並[ならびに]歌一首。
勅題雪中早梅 井月
降積る雪にいそくや花の兄
鶏の鳴く函谷関[かくこくかん]や明の春
これにかの弓によせて蚕を寿くという歌が書きそえてある。なおこの勅題は井月全集の頭注に明治二十七年とあるが。「二」は衍[えん](註:衍字のこと。誤って入った不要の字)か。
短冊一枚。
叩かるる恋の柴折[しおり]や夜の梅 井月
六曲屏風。そこにたれやらの画をあしらって、伊那谷のひとびとの句が書きつけてある。またその一扇には、さまざまの短冊がハリマゼになっている。井月三句。
霎[しぐれ]ともならて夜深か鵆[ちどり]から 井月
物こしに采女[うねめ]の声や青簾
 柳の家
名所 娘[おみな]えし気強く立てり男山 柳の家
オミナエシに娘という字をあたるのは、井月の癖か。
以上。ざっとこれを見わたすに、さて何ということもない。どうも井月は一句立の発句よりも附合のほうに妙をえていたようである。一句立となると、この口ぶりでは、いいまわしが手筒[てづつ]に落ちやすいだろう。いや、げんに手筒の句がちらばっている。存外、秀句というものはタシナイ。井月といえば、何処やらに鶴の声きくの一句のみ世にきこえているのは、もっともとおもう。所詮、この風来坊、取柄は俳諧連歌と旅ということになるか。それならば、やっぱり芭蕉の門流ではある。

風来坊にとっては、落ちこんだ谷底の三十年もまた毎日の旅であった。そこには終[つい]の栖[すみか]はあたえられない。草庵は野宿の夢である。ここで振出しにもどって、谷底以前の風来坊の影を追いもとめても、むだにきまっている。影は当人のふところの中にひそんでいた。コジキ坊主は落栗意識という自分の影を抱いたまま、枯田の中にまでころがりつづけた。落栗がころがる途中で、あちこちの家に足をとめたとしても、何日かのあいだその屋根の下に迎え入れられたというよりは、何日かののちにそこから逐[お]い出されたていったほうが実状にちかいだろう。入籍のゆかりのある塩原家ですら、「酒のお伽はしきれんで」という理由によって、井月を逐ったことがあるという。このシラミだらけのキタレモノの書きちらした反故を、当時のひとが珍重したはずがなあ。しかし、ひとびとか死んだコジキ坊主のことなんぞを忘れかけた隙間に食いついて、反故はシラミのように生きのこった。反故といういのちの燃えからの中に、ヨボヨボのコジキ坊主はときどき顔を出す。よくこんなやつが生きていたものだ。そう、後人の中のたれかがいつコジキ坊主になるか知れたものではない。後人はこの反故を軸に仕立てて、一年に一度ぐらいはいのちの虫干をする義理があるのかもしれない。
井月の墓は、正確にいえば塩原家の墓地はおなじく美篶村末広の畑の中にある。いちめんにひろがった畑の中に、ほんの一つまみの木立がとりのこされていて、そこが墓地である。このところに寺はない。すこしはなれて、河南[かなみ]村勝間にある曹洞宗龍勝寺が菩提寺ときく。木立の中にはいって、正面にやや大きく立っているのが、梅関夫妻の墓である。その石に、夫妻の戒名とならんで、井月の戒名が切ってある。塩翁斎柳家井月居士。側面に没年月日がきざまれているというが、磨損はなはだしく、肉眼をもってこれを読むことができない。ただし、この終焉の日附はまちがっていて、龍勝寺の過去帳によれば明治二十年三月十日。旧暦の二月十六日だそうである。この墓地の片ほとりに、別に小さい丸形の自然石が立っている。石は三峰川[みぶがわ]の赤御影という。目で見ても、手で撫でても、つるりとして、そこにはなにも彫ってない。いや、なにかが彫ってあるとはおもわれない。しかし、そこには十いくつかの文字がきざまれているはずである。
降とまで人には見せて花曇り 井月
すなわち、井月の句碑である。井月全集附載の空谷翁の記述によれば、これは井月の「死後間もなく梅関氏が建てたもの」としてあるが、それでは墓ということになるだろう。しかし、おなじ本の後記に、高津氏のしるすところにしたがえば、この石は大正九年三月、井月の三十三回忌に、塩原家が立てたものである。高津氏の言、聴くべし。まさに句碑にちがいない。すると、井月の遺骨はこの石の下には無いはずだろう。わたしはそれが梅関夫妻の墓の下にともに埋葬されたのでもあるかとおもった。しかし、井月の遺骨はまさに句碑の下にあると塩原家の当主は断言した。三十三回忌の句碑の下に故人の骨をうずめるということがあるものだろうか。そう聞かされても、わたしはまだ当主のことばを信じていない。すなわち、それは今日どうでもよい。風来坊の骨がどこの地にもぐっても、どこの空を吹っとんでも、かまわないか。ときに、晴れた空を見あげると、畑のはてのかなたに遠く、駒ヶ岳のいただきが光った。