「スタンプカードの罪 - ジェーン・スー」中公文庫 これでもいいのだ から

 

「スタンプカードの罪 - ジェーン・スー」中公文庫 これでもいいのだ から

久しぶりに風邪を引いた。今年は梅雨明け前に酷暑が続いたり、八月は打って変わって気温が低かったりと、不安定な陽気だったから仕方がない。
口では「仕方がない」と言いながら、悔しい気持ちがじわじわ込み上げてくる。平日に体調を崩さないのが、私の密かな信条だったのだ。
幸い仕事を休むほどではないが、連続健康記録がストップしたようで、めちゃめちゃ気分が悪い。記録が止まったことが気に食わないなんて、子どもみたいだけれど。
こんな風に考えるようになったのは、いつからだろう。記憶を辿ると、原点は小学生の夏休み、ラジオ体操だった。
毎朝慣れない早起きをして、首からスタンプカードをぶら下げ、徒歩三分の公園へと走った。走れば二分とかからない。とにかく私は、チャーンチャーンカチャカ チャンチャンチャンの音が流れるより前に、公園に着かねばならぬのだ。毎朝、メロスの気分。
ラジオ体操が楽しかったわけではない。行けば、スタンプを捺してもらえるのが嬉しかっただけだ。それが早起きの報酬だった。スタンプごときで脳からドーパミンが分泌されていたのだから、あのころの私は安上がりだった。
気持ちよくスタンプをもらうためには、ド頭から参加しなくてはならない。途中からだと、終わったあとスタンプをもらいに行くのに気が引ける。そういうところは、変に杓子定規な子どもだった。メロスを自称しておながら、私にとっては「間に合う、間に合わぬ」が大問題だったというわけ。
さて、このスタンプカードが曲者だった。画用紙より少し硬い紙に枡目が印刷されており、マンスリーカレンダーのように、枡と日付が紐づけられている。つまり、カードを見れば、毎日来ているか否かが一目瞭然。
スタンプが連打され、お団子のように連なっているうちは、ドーパミンもじゃんじゃん出る。しかし一日でも休んだら、そこには憎むべき白い空白が生まれてしまう。
ここでやる気が半減してしまうのが、私の常だった。「あーもういいや、誰かが処刑されるわけでもあるまいし」とメロスは不貞腐れてしまう。昨日まであんなに大事にしていたのに、空白は美しくないとばかりに、今日はもう、カードを見るのも嫌になってしまう。
大人になり、この仕組みはいかがなものかと思うようになった。行かなかった(行けなかった)ことをあんなにはっきり、空白で可視化する必要はなかったのではないか。
プール登校や、朝顔観察日記も同じだ。とにかく日本の小学生は、夏休みのあいだずっと、「継続こそ至高」と叩きこまれる。そのどれもが、連続性をスタンプやら絵やらで可視化し記録するシステムだった。
なぜそこまでやらされたかと言えば、継続を「日常の当たり前」として習慣化させるためだろう。頑張って続けるのではなく、息を吸うように続けるために、脳のなかに新しい回路を作るには、何度もそれを行う必要があると聞いたことがある。励みになるようにと、スタンプカードの類が生まれたのだろう。
あのときの大人たちに教えてほしかったのは、「継続」と「連続」は別物だということ。スタンプカードは、あくまで連続性を強調するシステムではないか。連続に途中欠場は許されないが、継続には休暇も許される。ラジオ体操のカードに、日付なんかいらないのだ。途中で休んでも、八割参加したらすべての枡が埋まるようになっていて、残りの二割はボーナスポイント、ぐらいだったらよかったのに。八割参加だって、十分に継続と呼べるだろう。
連続と継続をはき違え、中途半端な完全主義が助長された結果、私が途中で投げ出したものは数え切れない。日記、ダイエット、運動、勉強、ピアノ、などなど。一日か二日サボると、連続性の消滅に嫌気が差して、やめてしまう。その連続だった。そういう連続はいらないってのに、ねえ。ラジオ体操も、日記も、ダイエットも、連続記録更新が目的ではない。継続のためには、適度の休憩も必要なのだ。
子どものころ、「一度失敗すると、すぐ匙を投げちゃうのが悪い癖」と言われたことがある。私のせいではない。連続にばかり報酬を払っていた、当時の大人のせいに違いない。
こういう仕組みを子どものうちに学べたら、思春期の自己評価は、もう少し高かったような気もするのだけれど。