「「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(下) から

f:id:nprtheeconomistworld:20211225110711j:plain

 

「「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(下) から

荷風玉の井に足繁く通い「濹東綺譚」を書いた昭和十一年ころ、その玉の井の町で生まれ、路地を遊び場所にしていた子供がいた。
漫画家の滝田ゆうである。昭和七年に寺島町に生まれている。ちなみに玉の井という町名はあくまで通称で、町の名は向島区寺島町。「濹東綺譚」のお雪は「わたくし」に会った夜に、三味線のバチの形に切った名刺を渡すが、そこには「寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子」となっている。「この番地のあたりはこの盛場では西北の隅に寄つたところで、目貫[めぬき]の場所ではない」「其家は大正道路から唯[と]ある路地に入り、汚れた幟の立つてゐる伏見稲荷の前を過ぎ、溝[とぶ]に沿うて、猶奥深く入り込んだ処に在る」と説明されている。寺島町の町名は現在はもうなく、寺島町七丁目六十一番地というと、現在の東向島五丁目の二十五番地から二十七番地あたり。平和通りと呼ばれる小さな商店街と水戸街道に向かって左に入った住宅地の一角になる。「日乗」昭和十一年五月十六日に、荷風自筆の玉の井の地図がある。この地図の右肩、京成バスの車庫の上に伏見稲荷が見える。また「日乗」昭和十二年六月二十日には、「鹿島大覚」というこの伏見稲荷の神官から荷風に宛てて書かれた手紙が紹介されているが、神官の住所は「寺島町七ノ六五」となっている。お雪の家は「寺島町七丁目六十一番地」だから、伏見稲荷のすぐ近くとわかる。伏見稲荷は、戦後も現在の東向島五丁目二十六番地にあったが(戦災で焼け、戦後再建されたもの)、現在はなくなっている。
滝田ゆうは代表作「寺島町奇譚」(「ガロ」昭和四十三年十二月号-四十五年一月号、及び「別冊小説新潮」四十七年)で、この、いまは名前の消えてしまった寺島町(玉の井)の様子を回想して克明に描き出している。玉の井の私娼街にある「ドン」という電気ブランを飲ませるスタンド・バーの家の子キヨシを主人公にしている。滝田ゆうの子供時代の姿である。キヨシは小学生。時代は昭和十五、六年ころ。荷風が歩いたころよりは少し下っているが、町の様子はほとんで変っていないと考えていいだろう。
滝田ゆう自身は、『滝田ゆう作品集』(青林堂、昭和四十四年)の「あとがき」のなかで「寺島町奇譚」執筆に際して、資料などのひもどきは全くせず、記憶だけを頼りにした、だから「この漫画の中にみられる時代推移の設定と描写にはアッチャコッチャで無理があり、いたるところでくい違ってしまっていて今更の如く赤面の顔を赤くしている」と書いているが、町の様子にはそこで生まれ育った土地っ子ならではの細部が描きこまれており、「濹東綺譚」とあわせて読んでみると面白い作品になっている。荷風玉の井を外側から見たのに対し、滝田ゆうは内側から見た。
滝田ゆう玉の井についてこんなことを書いている。「色街と言っても、江東“玉の井”は、かつてその湿地帯跡に出来た私娼窟であり、べつにこれと言った格式もなく、そこはいわば単に春をひさぐだけの赤線地帯に過ぎなかった」「町は色街と共存してあり、ぼくたちはそこを銘酒屋[めいしや]と呼んで、その入り組んだ迷路のごとき露地小路を、格好の遊び場として、つねに駆けずり回っていたのである」(『裏町セレナーデ』双葉社、昭和六十二年)

荷風は「濹墨東綺譚」の中で、お雪の家を「溝際[どぶぎわ]の家」と呼び、この溝はむかしの吉原を取り巻いていた「鉄漿溝[おはぐろどぶ]より一層不潔に見える」と書いている。事実そのとおりだったことは、滝田ゆうの幼なじみという三遊亭円歌も、筑摩書房滝田ゆう漫画館』の『寺島町奇譚(下)』(平成四年)に寄せた解説「町も登場人物もみんな懐しい」のなかで、「われわれが育った町の雰囲気は、ゆうちゃんが描いたこの『寺島町奇譚』そのままだね。どぶ川があったり...。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね」と書いている。
この「汚いどぶ川」さえも、そこで生まれ育った子供には格好の遊び場所になる。「寺島町奇譚」の一篇「おはぐろどぶ」には、キヨシ(坊主頭である)をはじめ町の子供たちが、どぶにワリバシや笹の葉で作った舟を浮かべて競走させて楽しそうに遊んでいる姿が描かれている。ワリバシと笹舟がドブ板のトンネルに入る。するとキヨシたちは入り口にまわり、ほとんどどぶに顔をくっつけるようにして舟がトンネルから出てくるのを待ちうける。「汚いどぶ川」も子供にとっては清流に見立てられている。玉の井を内側から描くとはこういう細部を充実させることである。
「キヨシはそこに地元として、その迷路のごとき小路から小路へと、ドブ板を踏み鳴らして駆け巡り、ときにはそのココロやさしきお姐さんたちの心情目の当りに、なにやらさまざまな影響を受けて育った」(『私版昭和迷走絵図』東京堂、昭和六十二年)
路地、どぶ、銭湯、夜店、質屋、射的屋、ビリヤード場(玉突)、防火用水......、滝田ゆうはそうした東京下町の情景を丹念に描きこんでいる。「濹東綺譚」のなかに、お雪と「わたくし」がチリンチリンと鐘を鳴らしながら路地にやってくる氷屋から白玉を買って食べるくだりがあるが、滝田ゆうも路地に入り込んでくるさまざまな物売りを描いている。豆腐、アサリとシジミ玄米パン、きびだんご、あるいは包丁とぎ、さらには汲み取り屋の馬車もやってくる。このあたりは色街とはいえ下町の普通の町と変わらない。


玉の井は新開地だったからまたあちこちに原っぱが残っていた。そこではときどき見世物小屋が掛かった。荷風はそれを記録にとどめている。
昭和十二年五月十日、「夜浅草より玉の井を歩む。東武停留所のほとりの空地に曲馬かかりて賑なり。広小路には夜見世を見歩く人影しげく、あたり一帯にいかにも夏の夜らしき景色になりぬ」
同年五月十二日、「銀座に?して玉の井に至る。昭和病院裏の空地に曲馬の見世物あり」原っぱでサーカスの興行が行なわれている。「濹東綺譚」では、「失踪」の主人公種田順平にカフェーの女給すみ子が玉の井の町を説明するときに、「賑[にぎやか]よ、毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかかるわ」といっている。
昭和二年に玉の井に生まれ、現在もこの地に住む画家の小針美男によると、この原っぱは、寺島町六丁目の改正道路(現在の水戸街道)に面したところにあり、町の子供たちには「ゴリラが原」と呼ばれていたという。「濹東綺譚」の「わたくし」は玉の井からの帰り、寺島町六丁目の市バスの停留所で浅草行きのバスを待ちながらこの原っぱを見やる。「この空地には夏から秋にかけて、つひこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴し立ててゐたのであるが、いつの間にか、もとのやうになつて、あたりの薄暗い灯影[ほかげ]が水溜[みずたまり]の面[おもて]に反映してゐるばかりである」。見世物小屋の掛かる原っぱまで丹念に書きこむことが出来るのも、繰返された町歩きの結果である。
「濹東綺譚」にはまた、路地口には「ぬけられます」「安全通路」「京成バス近道」「オトメ街」「賑[にぎわい]本通[ほんとおり]」などと書いた灯がついているとあるが、滝田ゆうの絵でも路地を描くときは必ず「ぬけられます」「ちかみち」「安全通路」などの看板が描きこまれている。「ぬけられます」は玉の井の愛称といっていいほど有名な表示で、私家版『濹東綺譚』の表紙には「ぬけられます」の文字があしらわれている。

キヨシは「ぬけられます」の路地を遊び場所にしている。路地の娼家からは女たちの「ちょっと」「ちょっと」「おあがりになってン」の声が聞えてくる。娼家には女の顔だけが見える小さな窓がある。「濹東綺譚」の挿絵を描いた木村荘八の随筆「銘酒屋」(昭和二十一年)によるとこの「方三尺の呼び込み窓」は「目ばかり窓」と呼ばれ戦前の玉の井のひとつの名物だったという。こういう小さな窓が作られたのは、監督当局が女と客の交渉を制限したため。総じて玉の井の銘酒屋は零細企業といっていいほど規模が小さく抱えている女も二、三人だった。お雪のいるいる銘酒屋もそうである。はじめに「わたくし」が彼女の家に上がったときは、もう一人いた女は「住替[すみかえ]」でいなくなり、いまはお雪ひとりになっている。主人は別にいる。お雪の言葉を借りれば「御主人は別の家[うち]よ。玉の井館ツて云ふ寄席があるでせう。その裏に住宅[すまい]があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ」。「玉の井館」は、大正通りの隅田バス車庫前にあった寄席。戦後は映画館になり、現在はセイフーというスーパーマーケットになっている。
「寺島町奇譚」を読むと電柱に実に多くの病院の看板が架かっているのに気づく。これがいかにも玉の井らしい。「原肛門科」「大久保病院」「滝肛門科・婦人科」「大原医院・X線科・婦人科」「石子医院・婦人科・肛門科」あるいは「もみりょうじ」「助産婦」、また薬屋の前には衛生器具「ダッチ・ベッサリ」の看板も見える。昭和四年に設立された昭和病院(現在の向島保健所あたり)に私娼たちが定期検診に出かけて行く姿も描かれている。色街だけに病院が目立ったのだろう。「玉の井界隈0番地」という一篇では娼婦のひとりが突然盲腸になって苦しみはじめ、病院にかつぎこまれる。「どぜうの命日」ではキヨシが学校の帰り、路地を歩いていると娼婦どうしが「気のせいかここんとこ痛くて......」「あまり無理しないほうがいいわよ」「滋養のあるもんたべてからだに精をつけなきゃだめよ」と話している声が聞えてくる。重労働の娼婦には病気がつきものだったことは想像に難くない。
荷風は随筆「寺じまの記」のなかで、玉の井の商店のなかには「薬屋が多く」と、薬屋が多いことに着目している。また私家版『濹東綺譚』には荷風が撮影した玉の井の写真十一葉(それぞれにキャプションがわりの俳句がつく)が付されているが、その一枚、東武鉄道の踏切を撮った写真を見ると、道路脇の電柱に「内科外科小児科花柳病科」の病院の看板が見えるし、もう一枚、町角のバスを撮った写真には、右側に私娼の検診所「民衆医院」が写っている。玉の井は場所柄、病院の多い町だったといえるだろう。「濹東綺譚」のお雪は歯痛で歯医者に通うし、最後には病気で入院させられる。「わたしくしがお雪の病んで入院してゐることを知つたのは其夜である。雇婆から窓口で聞いただけなので、病の何であるかも知る由がなかった」。


「寺島町奇譚」には、当時の東武鉄道玉の井駅の絵が二枚入っている。一枚は上り線のホーム、もう一枚は下り線のホームにあった駅舎。どちらも二頁見開きの大きな絵で、それだけ滝田ゆうの想いがこもっている。滝田ゆうは、「寺島町奇譚」を描くにあたって資料を使わず記憶だけに頼ったから自信がないと控え目にいっているが、この玉の井駅の様子は、荷風が撮影した私家版『濹東綺譚』(昭和十二年)所収の玉の井駅のホームの写真と比べても決しておかしくない。
「濹東綺譚」にあるように、東武鉄道曳舟と鐘ヶ淵の間に新しく玉の井駅を設置したのは、昭和五年の春、帝都復興祭が行われたころ。夜も十二時まで雷門から六銭で人を運び、玉の井盛況の一因となった。それでも駅の周囲はまだ開けていなかったらしく、「線路の左右に樹木の欝然と生茂[おいしげ]つた広大な別荘らしいものがある」と荷風は書いている。それを受けるかのように滝田ゆうは、ホームの向こうに鬱蒼とした木々を描きこんでいる。「日乗」昭和十一年九月二十二日に「?下また玉の井に往く。東武電車玉の井停車馬の西方に樹木鬱蒼たる別?の如き一構あるを見、其の方に歩みを運ぶ。人に問ふに安田銀行の別荘なりと云う」とあるのが、「濹東綺譚」の「線路の左右に樹木の欝然と生茂つた広大な別荘らしいものがある」に対応している。ただし、小針美男によれば、この樹々に囲まれた家は「安田銀行の別荘」ではなく、小倉石油社長小倉常吉の別邸だったという(『東京つれづれ画帖』創林社、昭和六十一二年)。広大な屋敷で、なかには池もあった。江戸から明治にかけて濹東の文人たちの別荘地だった名残りだろう。荷風は「安田銀行の別荘」には確信が持てなかったらしく、「濹東綺譚」ではそのことを省いている。また「線路の左右」とあるように、東武電車線路の右側にも、木々で囲まれた屋敷があったが、これは小島重太郎という大地主の家だったという。当時の玉の井はまだ新開地ならではの田園の名残りをとどめていた。
ちなみに滝田ゆうはあるインタビュー(「ガロ」昭和四十四年四月増刊号)で「(小説は)生涯に芥川の『河童』と荷風の『濹東綺譚』だけ」と答えている。荷風への傾倒ぶりがうかがえる。「寺島町奇譚」の題名が「濹東綺譚」からとられていることはいうまでもない。おそらく滝田ゆうは「寺島町奇譚」を描くにあたって「濹東綺譚」を熟読したに違いない。

玉の井の駅舎の絵は、雨の日のもので、駅舎の前はどぶがあふれ、傘をさした人間たちはズボンをまくって歩いている。雨が降るとどぶがあふれる。これも荷風が「濹墨東綺譚」で書いている。玉の井の名物である。「わたくし」がはじめてお雪の家に上がった日、突然の雨でどぶがあふれたらしく、路地には「アラアラ大変だ。きいちやん。鰌[どじよう]が泳いでるよ」という声が聞えてくる。
このどじようは魚屋から逃げてきたものか。あるいは近くの田んぼからまぎれこんだか。いずれにせよ玉の井の場末の面白さをよくあらわしている。雨でどぶがあふれる。そこにどじようが泳いでいる。こういう風景は「隅田川を越えた濹墨東」ならではのもの。当時、玉の井に住み、抱え主に搾取されている私娼たちの解放運動を試みた南喜一の「玉の井二十五年」(「中央公論」昭和十五年三月号)によれば、大正のはじめのころの玉の井は「一面の蓮田」だったというから、相当の湿地帯だったのだろう。夏になると蚊が大量に発したのはそのため。「濹墨東綺譚」では、お雪の主人が「わたくし」に「ここはもともと埋地で、碌に地揚もしないんだから」と愚痴をこぼしている。
どじようといえば、「寺島町奇譚」ではキヨシの父親がどじようを割いたり、客に柳川鍋を出したりする。また娼婦が魚屋でどじようを一匹もらい、それを金魚のように飼おうとするくだりもある。安価で滋養のあるどじようは、玉の井で親しまれていたのだろう。滝田ゆうの号が「泥鰌庵[どぜうあん]」だったのもいかにも濹墨東生まれらしく面白い。


東武鉄道と並んで、「濹東綺譚」にはもうひとつ印象的な鉄道が出てくる。京成白髭線。京成電車向島駅(曳舟駅と荒川駅〔現在の八広駅〕のあいだにあった駅)から西に枝分れし、改正道路を横切って、玉の井の私娼街の真ん中を走り、玉の井の駅の北(現在のいろは通りと東武線が交差するあたり)で東武線を跨いで、白髭橋の東詰に至る。駅の数は、向島、長浦、玉之井、白髭の四つだけ。全長わずか一・四キロの私鉄ローカル線である。
京成電鉄五十年史』(昭和四十二年)によれば、昭和三年四月に開通したものの、利用客が少なかったため、昭和十一年の一月に廃止されたという短命の路線である。もともと、白髭橋を渡り、泪橋から三ノ輪橋に出て、王子電車(現在の都電荒川線)と接続する予定にあったという。路線が廃止された昭和十一年といえば、荷風玉の井出遊がさかんになったとき。
この京成白髭線の線路が土手の形になって残った。「濹東綺譚」の冒頭に出てくる線路跡がこれである。
「(東武鉄道の)線路に沿うて売借地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかつた土手際に達してゐる。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかつた石段の上には取払はれた玉の井停車場の跡が雑草に蔽はれて、此方[こなた]からみると城址[しろあと]のやうな趣きをなしてゐる」
「わたくし」は夏草をわけて土手にのぼり、土手の上から玉の井の夕暮れの風景を眺める。陋巷が眼下に広がっている。湯屋の煙突やネオンが見える。場末の詩情を感じたのだろう。「わたくし」は足元が暗くなるまでその土手の上から町を眺めている。そして闇が深くなったころ、ようやく土手を降りて玉の井の盛り場に入って行き、そこではじめてお雪に会う。いまはもう使われなくなった鉄道の線路跡。「わたくし」はその廃墟を経て玉の井に入る。荷風の町の細部を見る目の確かさであり、さらには、廃墟をまず冒頭に置くことで、物語全体を現実から遠ざける絶妙の効果を作り出している。夏草がおい茂った、忘れられた線路跡とはいかにも荷風の好きそうな、すがれた風趣である。

よほどこの土手に惹かれたのだろう、私家版『濹東綺譚』には、その写真が収められ、「名も知らぬ小草の花やつゆのたま」の句が添えられている。木村荘八も「濹東綺譚」の挿絵に、この土手の上に立つ荷風を描くのを忘れてはいない。木村荘八荷風の愛読者だっただけに「濹東綺譚」の挿絵の仕事を「東京朝日新聞」から依頼されたとき、「オレのウンメイは、これで極まった」と思ったほど感激したという(随筆「濹東綺譚」昭和二十二年)。そしてこの仕事に全力投球し、荷風に倣って玉の井に前後七回ほど出かけ、町の様子を丹念にスケッチした。京成電車跡の土手の絵はその成果だろう。
当時の玉の井の子供たちにとっては、この土手もまた格好の遊び場所になったようだ。三遊亭円歌は前出「町も登場人物もみんな懐しい」のなかで、京成電車が走っていた跡の高台を子供たちは「土手」と呼んでいて、よくそこで遊んだと書いている。滝田ゆうも、ここには思い入れがあるのだろう、『私版昭和迷走絵図』のなかに「旧玉の井停車場跡」の絵を入れている。「わたくし」が昭和十一年の六月に見たのとほとんど同じ風景である。
「寺島町奇譚」の一篇「鰯雲は西へ」では、キヨシの祖母が孫娘にあの「やま」は、もとの京成の停車場のことで、昔のことを知らない孫娘に「知らないのかいお前」「押上からずーっときて向島駅からこーきて東武の上を通って白髭までいってたんだよ」と説明している。ここにも見開き二ページで「土手」の絵が描かれている。戦前の玉の井で生まれ育った子供にはこの「土手」が懐かしい特別の場所になっているのだろう。滝田ゆうは「濹東綺譚」を読んでその記憶を豊かによみがえらせたのかもしれない。
玉の井は昭和二十年三月十日の大空襲で、そのほとんどが焼失した。「寺島町奇譚」は、玉の井が焼け野原になった絵で終っている。現実の玉の井が廃滅し、ただ荷風が「濹東綺譚」で描いた夢の里としての玉の井だけが残った。「濹東綺譚」が今日、一篇の詩的散文として屹立しているのはこのためだろう。木村荘八の言葉を借りれば、「濹東-永井さんの名付けた濹東も、漸く伝説となり、昔がたりとなりましたが、戦争がなければ、戦災がなければ、こうも早く『伝説』とはならなかったでしょう」(「濹東の変遷」昭和二十六年)
現在の玉の井には無論、どぶも銘酒屋もないし、「土手」もない。京成白髭線の名残りは、向島駅のホームの跡が、約一〇メートルにわたって、京成線の線路に残っているのみ。