1/3「戦前の面影をたずねて - 吉村昭」文春文庫 東京の下町 から

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1/3「戦前の面影をたずねて - 吉村昭」文春文庫 東京の下町 から
 

戦前には、両親をはじめ大人たちが過去を語る時、「震災前」「震災後」という言葉を口にした。東京に住んでいた者たちは、大正十二年九月一日の関東大震災を時間の大きな節目にしていた。それが私たちの世代になると、大東亜戦争と称された戦争が敗戦によって終結した昭和二十年八月十五日がそれに相当し、「戦前」「戦後」という言葉を使う。戦後四十年が早くも過ぎた。
この連載随筆も、いつの間にか十七回書いてきたことになる。執筆前は七、八回で書くことが尽きるのではないか、と予測していたが、そのうちに記憶が次々によみがえって、まだ書くことがある、と自らに言いきかせて筆を進めてきた。それも数回のことで「、その後は記憶をひねり出すのに苦しみ、ようやくここまでたどりつくことができた。このようなたぐいのものは無理に書くべきではなく、今回の連載の筆をおくことにしたが、丁度頃合い、という気持である。つまり最終回というわけで、随筆の舞台にした日暮里町とその周辺が現在どのようになっているかをさぐるため、あらためて歩いてみることにした。
むろん町とその周辺は戦災で焼きはらわれたが、焼け残った個所も意外に多い。それらの地を歩くと、四十年という歳月がたちまち短縮される。たかが四十年じゃないか、とも思う。
山手線の田端、日暮里間に新設された西日暮里駅で降りた私は、駅の横にある間(ま)ノ坂をのぼった。西日暮里の道灌山にある中学校への私の通学路であった。
坂をのぼりきると、左手に諏訪神社がある。毎年八月下旬の祭礼には、今でも境内から日暮里駅方面に通じる参拝道に縁日の露店が隙間なく並ぶ。鳥居を少しすぎた左手に煙草屋があり、その隣家に日暮里、谷中の生字引と言われる史家の平塚春造氏(八十四歳)が住んでいる。日暮里町に住む私の次兄が親しくさせていただいている方で、氏のお話をきくため上りこんだ。
この随筆連載の中で、鳥居の前に久保田万太郎氏の借りた家があったことを書いたが、平塚氏の話で私の記憶ちがいであることに気づいた。私がよく訪れたのは大学教授を父に持つ友人の持家で、久保田氏はその隣りの借家に住んでいたのである。友人が「隣りの家に久保田万太郎という小説家が住んでいた」と言ったのを、かれの家と錯覚していたらしい。
久保田氏の借りていた家は立派な二階家で、石をつんだ上に檜の板が張られた塀にかこまれ、門は屏中門であったという。日本画の大家橋本関雪氏もその家を借りていたことがあり、今では、その場所に小さなマンションが建っている。つまり久保田氏の住んでいた家は現存していない。
この附近一帯は戦災をまぬがれていて、戦前の面影が色濃く残され、平塚氏の家の前を下っている細い坂も変りはない。初めは名のない坂であったが、坂の下に畳屋があったことから畳坂、土中から骸骨が出たので骸骨坂、妙隆寺に通じることから妙隆(みょうろ)坂と変り、昭和二年頃に冨士見坂と名づけられ、現在に至っているという。
平塚氏の家を出て参拝道を進むと、右側に戦前そのままの二階家が並んでいる。二階にスダレが垂れ、軒下には植木鉢がいくつも置かれている。左手には、道に面していたニコニコ会館が露地の奥になっていた。
平塚氏の話によると、ニコニコ会館の館主及川清氏は、東洋的な身体健康法であるジキョウ(漢字)術を修得し、羽織、袴に十徳頭巾をかぶって一条公爵家などの名家にも出入りしていたという。諏訪神社境内で早朝おこなわれていたラジオ体操会に及川氏も加わるようになった。
「及川さんが裸になったのは、昭和十二年です」
平塚氏の言葉が、なんとなく可笑しかった。
及川氏は、全身を顔にをモットーに、上半身裸で笑いながら冬は北へ、夏は南へ足をむける。厳寒期のオホーツク海で寒中水泳をするのを常としていたが、八十四歳の高齢なので、現在はまわりの者が押しとどめているという。早期の体操会に、国鉄総裁になった加賀山之雄(ゆきお)も参加していて親しくなり、その関係からか国鉄はフリーパスで全国行脚をつづけてきたという。
「及川さんは、人柄が実によくてね。絵になる人ですよ」
平塚氏は、及川氏の後援者に多くの著名人がいることも口にした。
道を進むと、四つ角に出る。右手に七面坂があり、弧をえがいたその細い坂も戦前と変わりない。坂の右側に柏木流の踊りの師匠の家があって、七歳で病死した姉がお稽古をうけに通い、幼い私は、道に面した窓格子につかまって姉が躍るのを見つめていた。同じ師匠について年少の姉を可愛がってくれた少女が、現在、講談社の会長服部敏幸氏夫人になっているのを、最近になって知った。坂の左手には洋画家の中川紀元、満谷国四郎氏の家があった。参拝道を進むと、彫刻家朝倉文夫氏の邸が朝倉彫塑館として遺っている。
四つ角を日暮里駅の方向に曲がると、右側に谷中せんべい、左側に佃煮を売る中野屋がある。共に震災後から営業をつづけてきた店で、谷中せんべいは時折り口にするので、今回は中野屋の佃煮を買うことにした。平塚氏が絶賛したからだが、たしかに帰宅して口にしてみると、これこそ佃煮という戦前通りの味で、茶漬にすると殊にうまい。日暮里の名物ここにあり、という思いであった。