「蚊 - 永井龍男」講談社文芸文庫カレンダーの余白 から

 

「蚊 - 永井龍男講談社文芸文庫カレンダーの余白 から

 

私は荷風文学の忠実な読者ではない。
いまだに読んでいない著名な作品も多くあるし、昔読んだには違いないが、どういうものだったか、すでに思い出せない作品もある。
取るに足りない小文を記すとしても、何か読んでからにしたいと思って、あれこれ考えたが、やはり「濹東綺譚」が一番先に頭に来て離れない。
一気に読み終り、余勢で「おもかげ」とか「女中のはなし」「あぢさゐ」なぞの短篇も再読したが、「濹東綺譚」はもっと長い小説のように思っていたのに、夢から醒めたような気分であった。
荷風が自分の好みに異常な執着を持っていたことは、いまさら述べるまでもないが、この作品に於ける荷風は、その執着を客観化しようと極力努めている。ほんの一シーン撮るためにも、カメラの位置をおろそかにしまいという気構えが随所に感じられて、そのせいか読後の感銘はきわめて明澄である。
昭和十二年の作であるが、これ以降の荷風の作品は、世の荷風愛好家をよろこばしはしたが、次第に衰弱を示し、小説としての形を失って行ったように私には思われる。晩年の作品はまったく残闕で、横糸も縦糸も手に取るに耐えない。
「濹東綺譚」の初めの方に、主人公が言問橋の交番で巡査に調べられる処がある。戸籍謄本と印鑑証明書が、たまたま財布の中から出てきたために、疑いが晴れて釈放されるのだが、こんな処を読んでいるうちに、晩年の荷風が生んださまざまな畸行を思い出した。
数え立てては切りがない。巨額の預金帳を紛失したときは大きな新聞記事になったりしたが、すべて奇矯と見えた生活振りは、荷風が必死で自由と孤独を護ろうとした意欲の表れであった。
戸籍謄本と印鑑証明があれば、警官の疑いを避けられるのと同様、金さえ預けておけば誰になにを強いられることはないと確信して、巨額の預金帳を懐中にしていたのであろう。吝嗇でも慾呆けでもなかった。それを垣として、最後まで自らの自由と孤独を護り抜いたものに違いない。
「五十一歳の春、種田は教師の職を罷められた。退職手当を受取つた其日、種田は家にかへらず、跡をくらましてしまつた。
是より先、種田は嘗て其家に下女奉公に来た女すみ子と偶然電車の中で邂逅し、其女が浅草駒形のカフェーに働いてゐる事を知り、一二度おとづれてビールの酔を買つた事がある。
退職手当の金をふところにした其夜である。種田は初めて女給の部屋借をしてゐるアパートへ行き、事情を打明けて一晩泊めてもらった・・・。
これは「濹東綺譚」の中に出てくる「失踪」という小説の服案の一節だが、この種田という男は主人公の分身である。
種田の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草外れ、さもなくばそれに接した旧郡部の陋巷[ろうこう]に持って行くべく、主人公は散歩がてら探索に出かけて、たまたま玉の井の私娼窟に足を入れるのが発端となっているが、思いようでは、これはそのまま晩年の荷風その人を予言しているかのように読みとれるのである。
玉の井の私娼窟を、ストリップ小屋の楽屋に置きかえるまでもなく、種田が家族を捨てて世を忍ぶ姿は、晩年の荷風が実演しているかに私には思われるのである。
玉の井周辺の描写は、微に入り細をうがっている。情調に溺れることなく、風物を活写しながら、全篇に余韻がただよう。この作者は、しばしば秋を唱っているが、それにもまして梅雨の前後の裏町を愛し、この小説では実に巧みに蚊を使っている。
私はかねがね、清元の三千歳のうたい出しの文句に感心している。
「冴え返る、春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、上野の鐘の音も氷る、末は田川へ入谷村、廓へ近き畦道も、右か左か白妙に、往き来のなきを幸いと」
たしか、このような七五調の短文であるが、「忍逢春雪解」という外題[げだい]をそのまま、叙景の文章としてさすがは黙阿弥だと思っているが、
「わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いてきた道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、端しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突が屹立して、その頂きに七八日頃の夕月が懸つてゐる。空の一方には夕栄の色が薄く残つてゐながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺の屋根の間からはネオンサインの光と共にラデイオの響が聞え初める」
なぞという荷風の叙景文を読んでいると、一つは節付けを意識した文章であり、一つは活字化された散文であり、明暗の相違はあっても、一脈通じた沈潜した色合を感じるのは、やがて二つの物語がともに情痴の世界へ展開されて行くのを知っているからなのであろうか。
なお、作中に自作の俳句が八句、引用されている。
いずれも蚊を季題としたもので、陋巷の気分をたすけるために旧作の力を借りたのだが、私は第一句の
そのあたり片づけて吊る蚊帳かな
が、一番好ましい。なにげなくて、夜更けの町家の気配が感じられる。
残る蚊をかぞえる壁や雨のしみ
この蚊帳も酒とやならむ暮の秋
なぞの句は、別に面白いとは思わない。