「縁台ばなし - 里見弴」里見弴随筆集

 

「縁台ばなし - 里見弴」里見弴随筆集

盛[も]りこぼれんばかり堆[うずたか]く品物を飾りたてた荷車を、悠暢にゆっくり挽[ひ]いて来る、よろず荒物屋、轅棒[ながえぼう]にぶらさげた鈴をガランガラン鳴らして煮豆屋、檻の熊を人寄せに薬売り、鰯こー、鰯こー、あさり、からあさり、などの棒手振[ぼてふ]り、汽笛に似げなく哀ッぽい音色の羅宇屋[ラオや]、鋸の目たて、錠前なおし、下駄の歯入れ、冬の夜更には、淡路島通う千鳥、恋の辻うら、と声も切れ切れなかりんとう屋、お稲荷さん、鍋焼うどん、按摩かみしも二百文もここらに適[ふさ]わしく、また夏の朝には、第一にまず声自慢の苗うり、金魚屋、定斎屋、酸漿屋[ほおずきや]は見るだけで綺麗だし、市松格子の虫売りの荷も面白く、歳尾[くれ]になるて暦売り、正月のおたから、おたから、盆のお迎えおむかえ、朝晩の納豆、豆腐はいうもさらなり、街にふれ売りも、ただこう思いつくままに数えあげて来ただけでも、私たちが知ってからで、かなりもう影をひそめてしまったものが多い。新しく殖[ふ]えた方では、支那蕎麦のチャルメラを筆頭に、護謨[ゴム]靴のなおし、こうもり傘の張替、玄米麺麭[パン]のほやほや、メガホンでだみ声を響かすおでん屋、瀬戸物のこわれありませんか、まで入れて、あんまりぞッとしたのはない。食いしんぼの多い華街[いろまち]界隈を除けば、今では、山の手に限られてしまったが、それとて、このさき永い正月があろうとは思われない。東京の端[はず]れから端れへでも、五十銭で、瞬[またた]く間に行き着ける世の中に、行商の立ちゆかないのは当りまえとして、手甲、脚絆[きやはん]の定斎屋など、鋪装道路の上には、見た目にも気の毒ッたらしい。市井の年中行事、季節季節の景物、そんなものも多くはすたれ、全く態[さま]の変った習慣[ならわし]に、未練気なく席を譲ろうとしている。

それでも、つい先達、桜田本郷町の電車通りで、縁台屋が、荷車を挽いて、ふれながら行くのを見かけ、へえ、あれでやっぱり二つや三つは売れるとみえる、と、むしろ不思議な気がしたが、それほど東京の夏も変って来ている。ほんの一時の流行[はやり]かとも思われた避暑旅行も、中流以上の生活[くらし]では、今や既に立派な定石となってしまったし、東京に居残る連中も、オープン・カーを選んで、そこらひと周りドライヴとしゃれ込むとか、高層建築の屋上のカフェーで涼を納れるとか、いろいろ新手[しんて]が現れているのに、道ばたで、団扇をぱたつかせながらの、毒にも薬にもならぬ世間話から、「憎さも憎しなつかしし」程度の将棋で夜を更すなど、かえって本場の下街では、めったに見かけられなくなった今日、掛値のひどいふれ売りの縁台屋を呼び止めるやつの面が見たい、といいたくなるくらいのもの。
が、しかし、元来東京というところは、日中いかに暑くても、・・・いや、暑ければ暑いほど、といった方がいい、晩方からの涼風[すずかぜ]が、いかにもさらさらとしていて、決してそう暑中の凌ぎにくい土地柄ではなかった。土着の人間なら、口には出さずとも、内々それが自慢で、また夏の夜の情景には、いろいろ楽しく懐しい思出も残っていなければならないはずだし、またその一つには、必ずこの「夕顔棚の下涼み」の延長線上のものたる涼み台に絡[からま]るところもあるに違いないのだ。私なども、『白樺』を創[はじ]めたての生意気盛り、ここらがもう絶頂かと思われた避暑流行に対して、むしょうに反感を抱いた結果、もともと好きな旅行をすらなるべくほかの季節に繰り替えて、夏場だけは、意地にも東京に居残ろうとした時代がある。無論カフェ-など一軒だってあるわけのない夜の街を、ただなんとつかずほッつき歩いたものだ。戸障子をとり払っているだけのことでも、おのずと人々の気持を開放的にし、自由にするものか、とこへ行っても、街全体の空気に親しみが漲っているし、うすい着物の裏に、十分に「夏の幸」を享[う]けているような、溌溂たる肉体が感じられるのもよかった。亀島町の表通りから、ほんのちょっとはいったぬけ裏で、平気で行水をつかっているお上さんの白い肌を見かけたことがあるくらいで、夏か、遽[にわか]に人を自然に還[かえ]らせようとする点も気に入っていた。人事[じんじ]を離れても、大川はもとより、堀割や橋、柳の並木、土蔵、雑風景な交番すら生々として来る自分たちの市[まち]を見捨てて、西陽[び]の射し込む田舎の宿屋で、顔から手足、そこらじゅういっぱい蝿にたかられながら、昼寝などしているやつらを、心に憫笑[びんしよう]するだけでも痛快だった。一時間近くも縁台将棋を窺き込んでいたり、永代橋のそばの氷水屋に綺麗な娘を見つけて、十銭に足りない飲みものために、幾度か麹町から足を運び、居周りの若い衆の、遠慮のない冗談口を心ひそかに羨んだり、洒落たもの屋の飾り窓に吸いつけられて、愚にもつかない空想に耽っていたり、憫笑する側の当人も、決してそう大したもんではないのだが、とにかく、愛市[あいし]の念は、夏場において勃発し、からッ風の二月に至って消滅し尽すのが、年毎[としごと]のきまりだった。

震災後の、復興というより、改造といった方が当っているくらいの東京市で、なんといっても、一番市民の有難がっていいのは、路面の鋪装だわるくすると帽子まではねをあげ、足首を労[つか]らせて帰って来た時代を、足駄というものが、下駄箱のなかに永遠に禁固を申し渡された態[かたち]にされた今日から振り返ってみれば、誰しも有難がらなかろうはずはないのだけれど、しかし、駄々っ子じみた慾をいわせてもらえば、その結果、東京の夏の夜は、たしかにめちゃめちゃにされてしまった。いつまでも余熱[ほとぼり]が冷めないため、夕涼[ゆうすずみ]が、四、五時間もおくれて来るようになったのが第一、自動車の乗り心地はこの上もないが、歩き心地、・・・殊に散歩を目的とする歩き心地からいえば、以前の土の道の方が迴[はるか]に快く、気のせいか、鋪装だと早く労れもするようだ。等々の、甚だ非科学的な苦情の末に、多少きまりわるげに附け加えたいのが、夕涼の縁台に不向きな点だ。行通妨害の廉[かど]を以て、警官のお譴[とがめ]をうけるまでもなく、夜食後の時を、わざわざ道ばたへ出て過ごすなどは、決してボン・グウでもなければ、なおさらシックではない。前にもいう通り、要するに「夕顔棚」以来の旧弊で、それに都合がわるいからといって、天下の公道の鋪装を拒むやつがあるとすれば、さしずめ松沢行きだが、実は私も、夏になれば、いまだにその楽しみには加わる方なので・・・。加わる、というのは、鎌倉にいれば、その必要もないし、東京のうちでも自身縁台を持ち出すほどではないが、ここ何年か、下六番町の、泉先生のお宅のそれへ、時折仲間入りをさせて頂いているからだ。殊に、去年の歳尾[くれ]ちかく引越して以来、同町内もついすじ向いの目と鼻の間だから、今年の夏は、なおさらしげしげと先生のお宅の縁台の客にして頂けると、今からそれを楽しみにしている次第だ。
「こんばんは」
「や、いらっしゃい」
「いかがです、日中はなかなかえらござんすか・・・」
「ええ、どうも今年は・・・」
などから始まるのだが、お座敷へ通るのと違って、ゆかたがけの、どうかすると腕まくりかなんかで、碌に頭もさげず、そのまま先生の隣に腰をおろすと、天井がないせいか、・・・あっても、星のきらめく大空のせいか、不思議に話がのびのびと、種も尽きずに、いつかしっとり着ているものが露けくなるまで喋り込んでしまう。格子戸を出たりはいったり、奥さんがお茶など運んでくださる。どうせ翌朝のお掃除があることと思えば、煙草の吸い殻も、御夫婦揃っての綺麗好きを承知で、そこらにぱッぱと擲[ほう]りだして平気なものだし、唾もはく、裾をまくって毛脛も出す、・・・こうした、気散じなところが、縁台の一徳だ。無論しんみりともしないが、ねっとりともしず、東京の夜風をそのままに、誠にさらさらとしたお喋り、毎晩つづいたらどうかとも思うが、たまには楽しい清閑だ。時には、先客に小村雪岱さんが、優しく、しかもほがらかな笑声をたてていたり、あとから、水上滝太郎の阿部君が、ステッキを前に鬱然と立ちはだかったりする。人数が殖えれは、こっちはますます興を湧かし、自然気も強く、往き来の人を、注視するともなく、見迎え、見送っているが、これが、先様[さきさま]にとっては、存外こたえるものらしく、二、三人づれのいい若い者すら、どうかすると、しかけた話も中止して、胡乱[うろん]そうな目つきになることがあるくらい、まして一人で通る娘さんなどは、弓なりに、彼方側の溝[どぶ]ッ縁[ぷち]を、こそこそと、思わず足を早めたりする。縁台を据えた場所は、お宅の軒下といってもいいほどで、何尺も往来へはみ出しているわけではないが、この心理的圧迫を問題にするとなれば、たしかに行通妨害の実は挙げているのだから、その点、強いて罪つくりといっていえないこともないが、そのくらい、夏の夜の、あけッぴろげな、無邪気ないたずらとしても当然許さるべきだし、第一こっちにそんないたずら気もないのだ。ただ、通行人の態度から、へえ、そんなもんかなア、と心づき、いかに物堅い山の手の住人とはいえ、それほど縁台に親しみをもたなくなったのかと、今更のように、時勢を感じたりするわけだ。
実は、ここまでは序文で、あと、二つ、三つ、そういう縁台のより合いにでももち出すに適[ふさ]わしいような、気のはらない世間話を並べてみるつもりでいたのだが、かれこれもう頼まれた枚数に達しかけたから、頭でッかちにならないようにと、わざとここで筆を擱[お]くことにした。題して、「縁台ばなし」というのもそれがためだ。