「上野 蓬萊屋(後半) - 安藤鶴夫」東京の面影 から



 

「上野 蓬萊屋(後半) - 安藤鶴夫」東京の面影 から

蓬萊屋は、ひるは十一時半から一時半、夜は四時半から七時半までのあいだだけ、やっている。
とんかつというもの、夜より、昼がいい。たいてい、駒込の病院の帰りに、寄る。病院には、一週間にいちど、娘の運転する、ちいちゃなクルマに乗ッかっていくのだけれど、一回おきぐらいには、千駄木の観潮楼のそばを通って、上野へ出て、蓬萊屋に寄る。
松坂屋の裏の四つ角で、クルマをターンして、バックで、蓬萊屋の、連子窓[れんじまど]の下に、とめる。松坂屋へ、商品をはこんでくるクルマや、コーラの赤いクルマがひしめいていて、あれ、ちょっとした難所である。
いつも、娘よりも、ひと足早く、のれんをくぐるのだが、たいてい、いつも、待たされる。
と、その時は、よっぽど、うまい間だったとみえて、揚げ場に向かって、いちばん、左の、奥のイスに掛けられた。
はじめ、ひとちがいだと思った。よくみたら、辰之助なのである。ひとちがいではなかった。
蓬萊屋には、世にも、気の利いた女のひとがいるけれど、白い帽子と、上着の、コックスタイルで、若い男が、四、五人、働いている。
辰之助は、その中の、ひとりである。名を知らないので、わたしと娘で、辰之助とつけた。歌舞伎の、尾上辰之助に感じがよく似ていて、ま、千葉か、埼玉の、辰之助というところか。
いつも、店に入って、正面の、聚楽風の壁のところに立っている。
蓬萊屋は、とんかつの皿と、茶碗と、高菜の香のものをはこぶと、すぐ、手ごろな土瓶がはこばれてくる。遠くから、さりげなくみていて、ご飯のおかわりを、さッと持ってくる。むろん、竹の、すがすがしい箸である。
こまかくきざんだキャベツが、また、好きで、こんがりと、黒く揚がっているとんかつが、まだ、残っている皿を、目の前にして、わたしは、いつも、キャベツのおかわりをしてもらう。
そば猪口のようなのに、味噌汁を入れてくるが、これも、さっぱりしていていい。但し、希望をしないと、持ってこない。
むろん、オープン キッチンで、いつでも、油がいい音をたてている。和風で、オープンキッチンをなんというのだろうか。客演公開調理場、なんてンじゃアいやだから、ま、洋風に、そういっておこう。
鍋の前で、おとがいをひいて、長い竹の箸を持って、二つの鍋に、たえず、気をくばっている蓬萊屋の主人をみていると、いま、とんかつのことしか考えてはいないという、そういう無心さに、こころ、打たれる。
それでいて、二階に、あと、いくついくのか、そういうことも、いちばん、よくおぼえ、考えている。
鉤[かぎ]の手に曲ったテーブルの、表通りに面した、いちばん、右の隅に、ふたつ、鍋がたぎっていて、ひとつの方は、古く、濃い油である。ほんとは、ひとつ、鍋であろうけれど、短い時間に、大ぜいの客を、あんまり待たせないでたべさせるのには、温度のちがう油で、仕上げなければならない。
ときどき、揚げる前の肉を、かわいがるように、ちょっと、手でおさえる。なんだと思ったら、肉の厚みを、ならすのだそうだ。そんな、気のくばりかたが、とんかつの出来上がりに、ちゃんと影響する。
黒く、こんがりと、なんとも、ほどのいい揚げかたである。いつも、べつに、串かつをとるのだけれど、この方は、少し、黄いろめに揚げてある。ソースは、むろん、蓬萊屋の秘伝である。
からッとして、油ッけなんか、まったく、残らない。

その時、たべながら、わたしは、辰之助の変りかたに、感動した。感動という表現よりほかに、仕方がないだろう。
はっきりしたことはわからないけれど、二た月ぐらいのあいだ、辰之助をみなかった。デパートに二軒、支店を出しているので、そっちを手伝っているのか、それとも、やめたのか、と、思っていた。
いちばん、小どりまわしの利かない、いちばん、意気のわるい若い衆[し]で、いつも、壁の前に、ぶすッ、とした顔をして、立っていた。
その辰之助が、いったい、なんとしたことであろうか。ひとりで、店のサービスを切りまわして、客の肩越しに、きりッとしたアクションで、ご飯のかわりを出す。なにかいわれると、かしこまりました、といい、それから、承知しました、という。客が出ていくのへ、毎度、ありがとう存じますといっては、さッ、さッ、と、皿をはこぶ。お待たせ致しました、と、いう声まで、変った。まるッきり、ひとが違ってしまったのである。
あとから入ってきて、となりにすわった娘も、すぐ、そのことに気がついて、ちいさい声で、辰之助、どうしたの?と、いった。まったく、どうして、そう変ったのか、訊かないではいられなくなった。
と、ちょうど、わたしのまん前が、皿をならべて、揚ったのをのせる場所である。だから、ちいさい声でも話が出来る。その日は、おかみさんの弟が、揚げていた。やっぱり、きりッとした、いいコックさんである。
顔が、前にきたので、どうして変ったのかと訊いたら、なんともいい間[ま]で、とんかつを切りながら、へい、やめちまえといいました、それから、少し間をおいて、死ンじまえとまでいいましてね、と、いった。
うッ、と、なんだか、返事につまった。
少し、また、間をおいて、よかったね、といったら、ええ、よかったです、といいながら、また、鍋の方へ近づいていった。