「王子さくら新道 - 植田実」集合住宅物語 から

「王子さくら新道 - 植田実」集合住宅物語 から

 

 

飲食店で、いちばん長く付き合っているのはどこかといえば、新宿西口、線路沿いにある岐阜屋だ。学生のころ、ラーメンを食べるといえばここしかなかった。平成十一年(一九九九)十一月に全焼。隣りが火元だったからひとたまりもなかったが、翌年の二月十八日に再開。たまたまその日に行って、店内の基本構成はもとより壁に貼られた品書きまでほとんどそのままに復元されていたことに感動した。庶民の草の根文化財としての自覚を堅持している証拠、なんて思ってしまう。
この横丁について書き始めたのは、それぞれの二階はどう使っているのかが気になっていたからで、もし住まいにしているのならいつかは取材させてもらいたいと思いつつ、ためらっているうちに二十八店もが被災してしまった。新聞の報道によると、火元の二階は倉庫兼更衣室として家族が使っていたという。住宅地図を見ても、この一画はただ西口飲食店街とだけ記されて、個々の区割りは明示されていない。無理にこじあけて中身を見るのは遠慮したい。あくまでただの客のままでいたい気持ちもあった。
JR渋谷駅の原宿寄り線路沿いにものんべえ横丁がある。ここも住宅地図にはブロックの輪郭が示されているだけだが、たまに寄ってみた一軒でそれとなく訊いてみると、ふたりぐらい二階に寝泊り店があることはあるらしい。「こんなところで」よくもまあ眠れるものだと言いたげなおかみさんの顔つきである。たしかに、男女を問わず若い従業員だったりしたらなおさら、その人にとってはさびしい住まいだろう。
もう一ヵ所、何度か訪ねてはいるがいつも日が高いときで、肝心の火点しごろからは顔を出す機会のなかった飲み屋横丁がある。それがこの、王子「さくら新道」。やはり線路沿い。
電車がJR王子駅にさしかかるときに飛鳥山を背に並んでいる三棟が、いやでも目についた。まわりにこれ以外の建物が見えないうえに、三棟ともそろって屋根のところが看板のように長大な壁になっている。そこを破って壁抜け男みたいに部屋がポツポツと顔をのぞかせている。なんの建物なのか、何度見ても気になるので、ある日駅を降りて、やっと確かめた。
厳密には横丁とはいえない。手前に一、二軒の建物があるが、「さくら新道」を形成する二十軒足らずは、三棟に分かれ一列縦隊で線路の土手にくっつくように並んでいるだけ。表側つまり店が顔を出している道は鬱蒼たる飛鳥山の裾。森のなかに連れこまれて置き去りにされた子どもたちみたいな風情でもある。
結論をいえば、だから一度は飲みに来たい。盛り場の一画に紛れこむのとはちがう楽しさ。離れ小島みたいだが、駅はすぐ隣りで終電まで待ってくれている。
そして新宿や渋谷の横丁と違ういちばんの特徴は、なによりも生活感に満たされていることだ。棟と棟とのあいだを抜けた突き当たりは、線路の土手の緑を背景にした水場。晴れた日の二階は洗濯物の満艦飾で、そこから飲み屋食べ物屋の看板が遠慮がちに昼の素顔を出している。あきらかに住まわれている場所だ。
「そのとおり、集合住宅なんですよ、ここは」と、バー「リーベ」の長谷川道子さんは言う。ここの組合長さんである。
王子駅は東口を出たところが駅前広場になっているが、その一画に柳小路と呼ばれる飲食店街がある。終戦直後は闇市になっていた。その区画整理の際、抽選に当たった店は残り、それ以外は駅の反対側の国有地に移るよう指示された。そこがさくら新道である。現在は飛鳥山公園が王子一丁目一番地、さくら新道が三番地だが、当時はこちらのほうが一番地。しかし店の前は舗装もされず、泥道の先はどんづまりというありまさだったらしい。

王子といえば製紙と印刷の町だが、宝酒造もここにあった。なのに駅周辺にはちゃんとしたバーがない。応援するからやってくれないかと宝酒造に頼みこまれて、じゃあ三年間だけという期限つきで長谷川さんが店を開けたのが昭和三十四年(一九五九)。最初は宝のブランドの名をとって「キング・バー」とした。まったくの未経験だったので、「話が決まってからは、日本橋や銀座、いろいろなところに宝さんに連れていかれて、グラスから灰皿からおしぼりの扱いから、ひとつひとつ教わってね」。 いざ始めてみると、性に合ったというかおもしろくなって、三年どころか現在にまでおよんでいるわけだが、客あしらいのうまさだけではなく、役所などとの交渉でもこの人はうってつけにちがいないと、話を聞きながら思った。
新宿西口と同じように、もと小便[しよんべん]横丁と呼ばれていた。なにしろ自然が呼べばすぐ店の前に出て応えられる立地である。うまい具合に溝まである。店側にしてみればまずいことだし不潔だから、それまで汚水は第二棟と第三棟とのあいだに巨大なタンクを据え、バキューム・カーで処理してもらっていたのだが、まず溝に蓋をすると同時に下水管を通してもらった。
だいたい、ここは山ぐるみ駅ぐるみ水に弱かったようだ。飛鳥山への坂には寿司屋、そば屋、不動産屋などがずらっと店を出していたが、台風で土砂崩れが起き、全部よそに移っていった。また、駅周辺が水びたしになる雨の晩には、濡れねずみたちが線路をこえて新道の店々に、飲む口実も兼ねて避難してくる始末、結局、再度上下水道の本格的な工事を行った。このときは、一階の骨組だけ残して壁などを全部取り崩し、床を嵩上げしたりしてようやく落ち着いたが、その結果ドアが寸足らずになってしまったりと、後遺症はいまも残っている。
そういえば、屋根の上に見える長い壁はなんですかと訊くと、やはり看板としてつくったものだった。それも、競輪や競艇の。ところが東京オリンピックの際に景観を損ねるという理由で、肝心の文字や絵を描くのはまかりならんと都がストップをかけたらしい。役所の指導が奇観になっているわけだが、長屋建築としては竜骨みたいな立派な構造体にも見えておもしろい。
表側の二階が半間ずついっせいに張り出している。申し合わせたようにそろって見えるが、この増築は各戸別々に行ってきた結果らしい。だからもちろん、なかの階段の位置や造りも少しずつ違う。屋根の補修や電気水道、外灯などは組合費でまかなっている。
その看板を頭にのせた二階に上がると、いっぺんに視界が広がる。飛鳥山側は花と緑が窓際に迫っている。反対側はコンパクトな台所と浴室を通して、王子駅のプラットフォームが思いがけないほど目と鼻の先。手前に宇都宮線高崎線京浜東北線、奥に東北・上越新幹線の行き来を堪能できる。風呂に入ったまま、駅頭の人間模様を観察することもあるにちがいない。さらに屋根裏への階段をのぼれば、例の壁抜け男ふうの小さな部屋がある。なんという贅沢な住まい。
以前はみんなこの二階に住んでいた。外に家をもつことになったところでも通いは少なかったらしい。いまは商売をやらなくなっても店を人に貸して上に住んでいたり、一階も居室に改装してまるごと住居にしていたり、とにかくそれで「集合住宅ですよ」のかたちになっている。
江戸期からの名勝と、JRと王子線と地下鉄と石神井川と隧道と、都市のインフラの一大交流点のただなかにあって、明治通りの向こうの岸町と一体だったのがガードレールで引き裂かれた現在の姿は、行政の町づくりの波に翻弄されているようにみえてはいるが、命綱は離さない。全然へこたれない若々しい長谷川さんは現在、娘三人孫六人曾孫二人。今度こそ行くのは日が落ちてからだ。