「第8章 老いを受け入れる(内、3節抜書) - 春日武彦」中公文庫 老いへの不安・歳を取りそこねる人たち から

 

「第8章 老いを受け入れる(内、3節抜書) - 春日武彦」中公文庫 老いへの不安・歳を取りそこねる人たち から

 

【浜辺の煙】

 

浦島太郎の昔話は、なかなか不気味な物語である。竜宮城における快楽の日々はともかくとして、浜辺に戻ってきたら様子がおかしい。家々の佇まいも景色も微妙に変わり、知っている人は誰もいない。わずか数日を竜宮城で過ごしただけの筈なのに、驚くほどの年月が故郷では経過していた。太郎はすっかり世の流れに取り残され、強烈な違和感と孤独感を味わうことになる。さらに二段構えの不幸として、玉手箱の煙で太郎は老いさらばえてしまうわけである。
故郷へ帰った浦島太郎を、現代における「老い」のアナロジーとしてみるとどうであろうか。孤独死だとか家族の崩壊、地縁血縁の希薄化といった問題はあるいっぽう、今や「老い方」を知らない世代が雪崩を打って老いに突入しようとしている。エレガントな、ナチュラルな、さりげない老いの作法なんぞ見当すらつかないものの、それこそ数を頼んでどさくさまぎれに「これが今どきの老人」とばかりに、賑やかに事態を乗り切ってしまえそうな気もするのである。ストーンズだってとっくに六十歳を過ぎてるぜ、といった調子で。つまり老いの孤独や寂寥感はつきものだけれども、考えようによっては、結構アナーキーなノリで老年期に身を投じられるのではないか。そんな妙に楽観的な気分もどこか心の中に居座っているのである。だから独りで浜辺に佇む浦島太郎のイメージに、我々自身は重ならずに済むかもしれない。そのいっぽう、玉手箱の恐怖のほうが我々にはリアルではないのか。玉手箱なんか開けなければいいだけだといった話ではあるまい。生理的な老化のみならず、諦めや気落ちや悲しみや絶望が、玉手箱の煙となって我々を老け込ませる。アンチ・エイジングなどと称して誤魔化そうとしても、玉手箱の煙は我々の心の中にまで染み込んでくるだろう。

 

【同じ歳】

 

山田風太郎(一九二二~二〇〇一、小説家。兵庫県出身、東京医科大卒。奇想天外な娯楽小説で知られるが、その底には深い虚無感がある)の『人間臨終図巻』は享年十五から百二十一まで、古今東西の有名人(犯罪者や釈迦も含む)の生涯の要約と臨終の様子を亡くなった年齢別に淡々と書き記した一種の事典である。前書きも後書きもない素っ気なさで、ただし享年毎に死に関する片言(多くは山田によるが、他の人物のものも含まれる)が掲げられている。
この本を前にすると多くの人は、まず自分の現在の年齢で死んだ人物にはどんな者がいるか調べてみる。すると、老成したと思っていた人物や円熟したと思い込んでいた人物がもはや自分の歳で死去していることに気付き、愕然となるのだった。昔と今とでは人生の区切りが異なるから必然的に我々自身の幼稚さや未熟さを痛感させられるわけだが、いずれにせよ自分の歳の重ね方に思い至らざるを得ないことになる。そのような仕掛けの書物なのであった。
私の現在の年齢である、五十八で死去した人物を調べてみると、シーザーとかマキャベリ杜甫菅原道真黒田如水尾形光琳岩倉具視黒岩涙香溝口健二高見順中川一郎といった人々が挙げられている。そして俳人種田山頭火(一八八二~一九四〇)も含まれていた。
あの《分け入つても分け入つても青い山》の山頭火である。放浪の乞食僧[こつじきそう]であった彼の自意識過剰ぶりや、甘えとわざとらしさの混ざったトーンには、どこかしら晩年の諏訪優に通低したものが感じられる。言い換えれば、ストイックなものに憧れつつも遂にそのようにはなれず、中途半端に居直って世俗的な欲望を肯定する精神であろうか。散々に勿体ぶった挙げ句に、居酒屋は人生の縮図であるとか女の乳房は男の故郷だなどと「のたまい」かねないセンスでもある。
山頭火に限っては、彼のイメージと自分の今の年齢とに落差を感じない(尾崎放哉の享年がわずか四十一であったことには意外感があるが)。しょうもないオヤジという点で、苦笑したくなるところがある。昭和十五年十月十日、旅を終えて棲み着いた一草庵では句会が開かれていたが、山頭火は鼾[いびき]をかいて寝ていた。昼間から酔って寝ていることも多かったので、俳人仲間は彼を放置して句会に熱中し、「十一時ごろ、わざと起さず散会した。翌日になって、彼が死んでいるのが発見された。死因は心臓麻痺で、午前四時ごろ死亡したものと推定された。」
わたしは彼が旅の途中で商人宿みたいなところでひっそりと息を引き取ったと、そんな惨めな最期を漠然と想像していたので戸惑った。山田風太郎は、

彼はかねてから、「こおり往生」を願っていたが、氏にかただけは彼の望みのままになった。

と書いているが、寂しがり屋の山頭火が、仲間たちの句会の傍らで死に通ずる眠りに落ちていたという事実こそは真に幸せななことだったのではないかと推測したくなる。孤独を求めつつも、結局は仲間と楽しく過ごすことに安心感を見出す精神の持ち主にとっては、理想的な死に方ではあるまいか。ちょっと羨ましい。
さて山頭火は、近付きつつある老いのことをどう考えていたのか。一草庵に居を定めたこと自体、体力の衰えを実感していただろう。こういったときに、僧侶であるとか俳人であるといった立ち位置は年齢を超越したところがあってまことに事態を曖昧なものにしてくれる。最初から年寄り臭さの煙幕を張っているようなところがあり、同時に煩悩をさらけ出すことで間接的に老いを否定している気配がある。予想外に老いを上手くやり過ごしたままあの世に逃げおおせたなあ、と思わずにはいられないのである。

 

【老いるということ】


今の世の中は、若者ないしは子供を中心に据えて作られているようにしか見えない。街の景観にせよ、テレビやラジオやさまざまな文化現象にせよ、その安っぽさを含めてすべて若さに迎合している。つまり、現代そのものが老人には馴染まない。
老いることにはさまざまな意味が含まれ、死に近付く・認知症の危険が高まる・経済的ないしは身体的弱者となりかねない可能性が、まずは大きな不安要素になるだろう。あるいは孤独になる懸念。言い換えれば、世間との接点が失われる心配だろう。たがそのような憂慮を踏まえて指摘したいのは、昨今では老いに対して「損をした」といった感情が伴いがちではないかということである。
六十歳あたりで急に妄想的になったり精神的に不安定になる人が結構いることは既に第5章で述べた。今あらためて考えてみると、彼らの胸の内には若さに付随する筈の楽しいことや充実感を享受し損ねたという未練や不満が「損をした」という感覚で漂っていたのではないだろうか。諦めが悪いといえばその通りである。しかし恨みの気持ちが、世の中から取り残された・見捨てられたという実感と合体すると、そこには被害者意識が生まれることになる。被害者意識は往々にして「だから自分は何をしても許される」といった傲慢さや尊大さにつながる。そうした心の動きが、異様なほどに自己中心的な行動として顕現することもあるのではないか。たとえば暴走老人や高齢者の割り込み、ルール違反とか。
損を取り戻すための振る舞いとして、アンチ・エイジングや若作りを解釈することはできないだろうか。さもなければ、これ以上損をしない自己防衛として。ずいぶんいじましい話である。だがそんな思いに駆られて当然な程に、「尊厳を保ち自己肯定している老人」といった立場の確保が難しくなっているような気がしてならない。
アンチ・エイジングや若作りに対して、それを半ば本気で信じつつ、半ば「何を馬鹿げたことをやっているのだろう」といった自嘲も含まれているのではないか。こうした行いは、軽躁状態にも似た営みである。さもなければ祭りである。老いを受け入れることに躊躇し、といって若さを失っていないと信ずることもできないまま、若さを取り戻しつつある移行段階と思い定めることで気を紛らわす。そのためには、皆が揃ってアンチ・エイジング祭りに参加し、若作りという仮装行列に参加し、かりそめの高揚を持続する必要がある、ということになる。
世の中で自分だけが老いに逆らっていれば(しかも特に見た目において)、それは見苦しく滑稽なことと映るだろう。けれども、誰もがそれにのめり込めば、老いを冗談半分に誤魔化し、冗談半分に受け止めるという新しいスタイルとなるのではないか。軽躁状態で老いへの入り口を走り抜けるのは、ひとつの戦略である。わざと年寄りぶったり粋人ぶることが戦略であるのと同じように。