「そのとき - 佐野洋子」朝日文庫 あれも嫌いこれも好き から

 

「そのとき - 佐野洋子朝日文庫 あれも嫌いこれも好き から

 

その病院は多摩丘陵に突然生えて来たごとくに緑の中につっ立っていた。見かけは、高速道路の出口に林立しているラブホテルのようで、様式なぞめちゃくちゃなちょっと古風な西洋館である。張り出した白いバルコニーなどもあった。そんなものが私の家から車で五分もしないところにあったのは知らなかった。中に入る床が大理石で受付ホールにピアノがあり、待合い室は花柄のソファがあるのである。
私はびっくりしたが、ほかの病院の冷たいくせに不潔な感じとツンケンしている雰囲気とまるで違うので、その花柄のソファに座って同じ柄のクッションに抱きついて、内科の診療室の前で待っていた。患者もばかに少なかった。私はひどい神経症で、体中がのこぎりでひかれて、うすですりつぶされて、灼熱の太陽の下の砂漠を血まみれの心臓をひもでずるずる引きずって歩いているようで、その他体中が内乱を起しているボスニア・ヘルツェゴビナのようだった。ものなど全然食べられないのでどんどんやせていき、腹に手を置いたら、両足のつけ根の骨の間をえぐったようになっていて、これは栄養失調で死ぬかも知れんと思ったので、点滴をしてもらおうとその病院に行ったのである。家から一番近い病院だったからだ。
診察室に入ると実に堂々と立派な医者が居た。その医者は全然いばっていなかったので、私は驚いた。優しかったのである。「ここに入院させてくれますか」と言うとその医者は「ホテル代りに使って下さい」と優しい目付きのまま言うのである。
病室にはドレッサーまであった。私は空いている二人部屋を一人で使うことになった。隣は個室で空いていたが、あまりに広く、あまりにデコラティブで私は何だか恥ずかしかったのでやめた。部屋に案内してもらう時に、ホスピスだったことがわかった。何だ?何だ?と思ったが好奇心も充分にあったのだ。
私の体はどこも悪くなくて、睡眠薬をもらうだけで、あとは痛いのを我慢しているだけなので、気を紛らすためにテレビの置いてあるホールに行って一日中、花柄のソファにうずくまって、ホールに来る人達を見ていた。全員ガンなのだ。

私が入院した次の日、個室に患者が入って来た。背のスラッとした知的な美人の五十代の奥さんはホールで見舞客と小さな声で応対していた。実にたくさんの見舞客があるのだ。小声でもきこえてしまうし私は聞こうとしている。患者はANAJALパイロットだとわかって来た。奥さんは絶対にスチュワーデスだったとしか思えない。見舞客もパイロット仲間らしかった。
患者は初めから告知を希望していた。
自分の病状を正確に把握していた。
医者に余命をたずねた。医者は二カ月と答えたらしかった。
「ええ、主人は、自分で、ホスピスの資料を集めて、ここに自分できめたんです。ああいう人ですから」
理智的で沈着な人だったにちがいない。見舞客四人は息をつめて、つばさえ飲み込めずにしんとしていた。
「最後は家族だけで静かにって前から言ってましたから。ええ、前の病院ではちゃんと食べていたんです。
ここに入った日から全然食べなくなってしまいました。話もしなくなりました。主人はお医者さんに止めて欲しかったのだと思います。まだそんな必要ないって。私もこんなに急にガックリしちゃうなんて思ってなかったもので」
キチンとスーツを着ている見舞客は微動だにしなかった。

私のベッドから、夜中暗いオレンジ色の灯が見えて一晩中家族の誰かが起きている気配がひそかに感じられた。
隣の部屋が真っ暗なよりは、灯がついて人の気配があるほうが、私も温かい気持ちになれた。一度だけ半開きになっているドアから患者の足だけが見えた。青い縞のパジャマから出たすねが、バタンと反対側に倒れた。体中が切ながっているような弱い倒れ方だった。
次の日、夜になっても隣の部屋は暗いままだった。私は淋しい気がしたが、その前にバタバタしたあわただしい気配は何もしなかったので看病の人も早く寝たのだろうと思った。次の日看護婦さんに「隣、静かだね」と言うと、「ああ、お隣の人ね、昨日亡くなったの」と言った。「えっ、わかんなかった。だってまだ来たはっかりじゃない」「うん四日だったかしら、三日だったかしら。早かったのよ」丸々と健康そうな看護婦さんは、そのまま部屋を出ていった。私は奥さんの、主人は止めて欲しかったのだと思います、という言葉が頭から離れなかった。どんなに冷静沈着な人も、頭で考えることと気持ちの底の底は自分でもわからないのだ。
その時にならないとわからないのだ。
奥さんも医者もわからなかったのだ。
患者の言葉の向こう側の言葉ではないものは、その時が来ないとわからない。理性や言葉は圧倒的な現実の前に、そんなに強くないのだ。
私は十一日目に病院を出て来た。