「一匙の葡萄酒 - 夏目伸六」文士の食卓 中公文庫 から

 

 

「一匙の葡萄酒 - 夏目伸六」文士の食卓 中公文庫 から

かつて、森田草平さんが、父と一緒に入浴し、のんびりと湯ぶねの中につかりながら、
「若[も]し先生が死んで、閻魔様から、もう一度此[こ]の世に帰してやると云われたら、どうします」
と聞いた事があると云うが、
「そうさな」
と、一寸考えて居た父は、
「僕はね、この胃さえ、人並に丈夫にして呉れるなら、また改めて、人生をやり直して見る気があるよ」
と答えたそうである。
成程、ほとんどその半生を胃弱に悩まされ、特に、修善寺の大患以後は、毎年、何日かは必ず病床に過ごさねばならなかった父とすれば、その間、絶えず、絶食を余儀無くされ、まるで子供の様に、ひもじい思いと闘い続けて居たのだから、恐らくこの気持は、端から見るより、遥かに切実な物であったのに違いない。
ところで、明治四十四年と云えば、前年の大患に引続き入院して居た長与[ながよ]病院から父がようやく退院した年だが、この五月中の日記に、全然日附のぬけた箇所が十日程あり、その中で、父は誠に笑止な一人の患者の話を書き込んで居る。多分、係りつけの医者からか、それとも病院の看護婦にでも聞いた話に違いないが、

○腸チフスの患者。枕の下へ巻紙をまいて入れている。医者が見ても可[い]いかと聞いたら不可[いけ]ないと云う。医者は詩でも作ったものと考えて、そんなに頭を使っちゃならんと云いながら引き出して見ると、三尺ばかりの紙に鰻屋だの料理屋の名が一面にかいてあった。病気が癒ったら一軒毎に食ってまわる積りだったという(これは医者の話)。
同じ患者自から云う。腹が減って何か食いたくて仕方がない。仕方がないから腹が痛いからパップをして呉れと云って蒟蒻[こんにやく]を腹にのせて貰って、それを夜具を被って半分程食った。
同じ患者、弟にそっと云いつけて羊羮の箱をとり寄せて底を抜いて上部はなんともない様にして中味を食って仕舞った。それから熱が出て、半年程は腰がたたなくなって、今でも髪の毛が五十位の爺さんの様に薄くなっている。
同じ患者の病室へ細君が子供を抱いて見舞に来たら、患者其子供の手に持っている菓子を見て、食いたくて、とうとうそれを引ったくって食った。それがため遂に死んでしまった。

というのである。
しかし、またなんで、父がこんな聞き書きを、克明に日記中に書き込んだものか、恐らく、同じ思いを絶えず堪えて来た父には、この餓鬼道におち入った哀れな男の姿が決して人ごとの様には思えなかったのかも知れない。現に、父は、修善寺で病臥中、この患者と同様な、寝ながら常に、好きな洋食だの蒲焼を頭に描いて、それをせめてもの慰めとして居たと云うし、弟子の東(新)さんからは、
「先生はあんな顔をしながら、いつも食べ物の事ばかり考えて居るんだからおかしい」
と云われたのもこの頃の事である。
そう云えば、この東さんと小宮豊隆さんが、入院中の父を見舞に来て、折から其処[そこ]に居合せた母をつかまえ、
「ねえ奥さん、今日は帰りに鰻でも奢って下さい」
と云って、めずらしく父から酷い剣幕で呶鳴[どな]られ、流石の小宮さんも、しゅんとして、すっかりしょげ返ったと云う話があるが、私には、この時父が、心ない弟子の口調に、つい腹を立てた気持も解らないではない。もっとも、翌日、再び母が病院へ出向いた時には、父の機嫌も、もうすっかり直って居て、
「あれからどうした」
と聞いたそうだが、
「あなたがあんなに呶鳴るもんだから皆、何処へも寄らず、大人しく家へ帰りました」
と云う答に、
「そうか、そりゃ気の毒な事をしたな。小宮の奴、例によって、あんまり暢気に贅沢な事ばかり云ってるので、つい呶鳴りつけてしまったが」
と苦笑して居たと云う事である。
ところで、父にとって、修善寺の吐血以来、胃潰瘍は完全な痼疾[こしつ]となった様で、翌年の二月、ようやく長与胃腸病院を退院したものの、その夏、大阪朝日主催の講演の為下阪した時には、また持病を再発させて、湯川病院に入院し、
「蝙蝠[かわほり]の宵々毎や薄き粥」
と云う句を寺田さん宛に書き送って居る。もっとも、この句は、先日の漱石展に出品された自筆の短冊には、
「稲妻の宵々毎や粥薄き」
とあり、母も、父が死んだ時、香典返しに、これを染め抜いた袱紗を配ったと云う話である。当時湯川病院のあった所は、非常に雷の多い土地だったと聞いて居るが、いずれにしろ、旅先で病んで、一人ぽつ然[ねん]と、病院の窓越しに暮れ行く夏の青空を見守りながら、薄い粥を待ちわびて居る父の姿が、そこはかとなき、この句の中に滲み出て居るような気がする。もっとも、この時は、幸い一ヶ月で退院する事が出来たが、大正二年三月には、またもや病いを発して、折から朝日に連載中の「行人」を、一時擱筆[かくひつ]せざるを得なくなった。更に大正三年の十月には、「心」の執筆を終って間もなく、酷い胃カタルを起こして、一月程病床につき、翌四年の三月には、京都の旅先で倒れて居る。

結局、父の最後の病いは、大正五年十一月十六日、夕食の膳に乗った粕漬の鶇[つぐみ]がもとだった様で、既に翌日から、胃の工合が悪かったらしいが、二十一日、前々から是非にと出席を懇望されて居た辰野隆氏の結婚式に、無理に出向いたまではいいとして、誰も注意する者の居ないのを幸い、眼の前の小皿に盛られた南京豆を、ぼりぼり食べたのが、そもそも直接の原因だったらしい。生憎と多少席の離れて居た母は、気に掛りながらも、遠くから、これを制止する訳に行かなかったのだと云う。もっとも、帰宅した夜は、思ったほどの事もなく、そのまま寝に就いたのだが、翌朝起床し、例によって書斎に引き籠った父の様子を、午[ひる]ごろ母が見に行った時には、(189)と「明暗」の最後の回数だけを書いた原稿用紙の上に、父はじっと俯[うつぶ]せになって居たと云う。で、早速、次の間に床を敷いて寝かせた訳だが、母に助けられて、寝床につれて行かれる途中、父はふと、
「人間もなんだな、死ぬなんて事は大した事でもないな。俺は今、ああして苦しがって居ながら、辞世を考えて居たよ」
と語ったそうである。が、父の病状は、今までの経験上、一寝入りすると多少良くなるのが常であり、この日も、宵に眠りから覚めると、急に元気を取り戻し、母を掴えて、
「腹がすいたから、何か食わせろ」
と、頻[しき]りにせがみ出したのである。でやむを得ず、極く薄く切った一片[きれ]のパンと牛乳を持って行ったのだが、こんな事では中々承知せず、もうあと一片と、せがみ倒された訳だが、母の懸念は案の定、食し終って一時間もするかしない内に、父は、今食べた物を凡て嘔吐してしまったのである。しかも、往診に見えた真鍋さんの薬さえ、飲めばすぐ吐くと云う塩梅では、医者としても、当分の間絶食を宣せずには居られなかったのも当然である。が、この絶食の効果か、二十八日頃には、大分気分も良くなった様子で、また頻りと食欲を訴える程に恢復[かいふく]して来たのである。で、一日に六回、三時間おきに、極く微量の牛乳と果汁、アイスクリームを薬と交互に与えても良いと云う医者からの許可がおりたのだけれど、父には、この三時間さえ待ち切れなかった様子で、まるで聞きわけの無い子供の様に、のべつ催促しては、傍らの母を困らせたのである。しかも、第一回目の内出血を起こして昏倒し、病状が急変したのはその夜の事である。
また絶食が続き、ほとんど申訳の様な薄い葛湯が許されたのは、それから四日後の十二月二日になってからである。が、こんな葛湯ですら、この時の父は本当においしそうに啜ったと云う事だが、その日の午後、便器に向って、不用意に力を入れた刹那に、父は二度目の内出血を起こし、またもや人事不省におちいったのである。
その後の父は、ただ大腿部に打たれる注射と、ほとんど咽喉[のど]を潤すにも足らぬ一匙の葡萄酒のみが、摂取し得る唯一の滋養物となったのである。十二月九日、父の病状は絶望となり、親戚知友は、既に枕頭に集り、医者もただ、手をこまぬいて、これを見守るばかりだったが、其処へ遅ればせに馳せつけた宮本博士が、たとえ絶望にせよ、医者としては、患者の息のある間は、最後の努力を捨てる可[べ]きではないと他の同僚を叱咤し、再び食塩注射が始まったのである。恐らく、父が今までの昏睡状態から一時的にも意識を恢復したのは、この注射の御かげに違いないが、ふと眼をあけた父の最後の言葉は、
「何か食いたい」
と云う、この期に及んで未だに満し得ぬ食欲への切実な願望だったのである。で、早速、医者の計らいで、一匙の葡萄酒が与えられる事になったが、
「うまい」
父は最後の望みをこの一匙の葡萄酒の中に味わって、また静かに眼を閉じたのである。
父が三度目の内出血を起こし、遂に息を引取ったのは、その日の夕方の六時五十分、一年中で最も短い冬の日が、もうとっぷりと窓外に暮れてしまった頃である。